【所縁の史跡】郡辺神社(静岡県)

 

■ 七ツ森神社 [地図]

静岡県袋井市国本の七ツ森神社です 。

『延喜式』神名帳の遠江国山名郡に「郡辺神社」が見え、その論社のひとつといわれます。

久津部(くつべ)の地名が残っており、これが郡辺(ぐんべ)に通じるということで郡辺神社に比定されたようです。

「郡辺」は今「こおりべ」と読むのが普通ですが、この国本にある坂尻遺跡からは「朽邊」と書かれた墨書土器が出土していて、「くつべ」の地名も古くからあったことがわかっています。

天明年間の『東街便覧図略』には、社名の由来となった七つの塚とともに祠が描かれています。
七ツ塚は現在では見ることができませんが、古墳とも考えられています。

祭神は久努国造。

国造本紀に「筑紫香椎朝の代に物部連の祖 伊香色男命の孫 印播足尼を以て国造に定め賜ふ」とあり、天孫本紀には物部印岐美連公は久努直の祖と見えて、久努国造が物部氏族だったことが知られます。

周辺の久努、久野、久能、国本などの地名は、この国造と関係していたものでしょう。

↓境内社。境内案内板によると、大日神社で祭神は天穂日命のようです。
ご神体は素朴な木像でした。

↓境内社の七ツ森稲荷神社。
祭神は倉稲魂命で、明治七年に字森廻から遷座したといいます。

「七ツ森(塚)」には、桓武朝に日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から遣わされた七人の戦士が返り討ちにあい、命を落としたため、哀れんだ村人によって彼らが葬られた墓だという伝説があるのだそうです。

鳥居の外は旧東海道です。
松の並木が江戸・明治の様子をしのばせます。


■ 赤尾澁垂神社 [地図]

静岡県袋井市高尾の赤尾に鎮座する赤尾澁垂神社です。
『三代実録』の元慶二年九月十六日条に、遠江国の赤尾神と渋垂神が従五位下の神階に叙されたことが見えます。

明治になって近隣の諸神社が多数合祀されたようです。

旧高尾村字六所に鎮座していた六所神社もそのひとつで、これが式内「郡辺神社」の論社といわれます。明治三年に郡部神社の名称に改め、明治三十三年に袋井駅前の整備にともなって現在地へ遷座しました。

郡部(郡辺)神社の祭神は、大己貴命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、表津綿津見神、中津綿津見神、底津綿津見神。

境内に面白い案内板がありました。当社の東北の峰に塚があり、国造本紀に見える遠淡海国造の祖・印岐美命を祀る神廟とされていたとのこと。

印岐美命は山名大神として、本社と境内社の白山神社に合祀されたそうです。

白山神社の社殿は下写真の覆屋の中にあり、天正十六年に建立されたもの。禅宗様式の特長を伝える貴重な建築として、市の文化財に指定されています。

この一帯から小笠沢川の上流域にかけての付近は、長者平古墳群をはじめとする、古墳時代後期の古墳が非常に多いことでも知られます。

神社の裏山にあるのが渋垂神社古墳群です。

↓境内社の赤尾弁財尊天社。
白龍神と弁財天を祀ります。
現在の社殿は浜松市から移転してきたものだそうです。

水子霊社と弘法大師霊場です。
独特の雰囲気です。


■ 大門大塚古墳 [地図]

赤尾渋垂神社から西へ六〇〇mほどのところにある、大門大塚古墳です。明治十六年と昭和六十一年に発掘調査が行われています。

直径約二六mの円墳で、南東に開口する横穴式石室を持っていました。豊富な出土品から、六世紀前半ころの当地の首長が被葬者と見られます。
何故か後醍醐天皇の皇子、宗良親王の墓という伝承もあるようです。


■ 富士浅間宮 [地図]

静岡県袋井市国本に鎮座する富士浅間宮です。
ここも「郡辺神社」の論社といわれます。また、山名神社にあてる説もあったようです。

北へ約一kmのあたりに、菅ヶ谷横穴墓群(静岡カントリー袋井コースゴルフ場内)があります。この丘陵が見おろす平地の一帯は条里制が施行されたところで、早い時期から開発が進んでいた地域と見られます。

桓武朝の大同二年に、坂上田村麻呂が征夷の帰路、富士山麓の浅間神社の神力によって征夷が成功したことを感謝して、当地に勧請し、社殿を造営したことに始まると伝えられるそうです。

祭神は木花開耶姫命。

元亀年間に戦乱の兵火にかかり、社殿は焼失したといい、現在の三間社流造の本殿は天正十八年竣工のものといいます。
以後、寛永十五年、安永四年、文政十二年に再建補修があったことを示す棟札も現存し、合わせて国指定の重要文化財になっています。

本社の背後には境内社が並びます。
八王子社、天伯神社、斎宮司社、神明社、稲荷社、秋葉社、富士社、谷田宮社です。

境内の東寄りにある梵鐘堂跡です。礎石が残ります。
寛永四年六月に、地頭北条氏良が鐘を作らせ奉納したと伝えるそうです。

楼門跡です。こちらも礎石のみ残ります。
享保年間に強風で倒壊して以来、楼門は失われていたのを、明和四年に復興。しかし安政元年の地震により再び倒壊して、今に至るといいます。随神が安置される立派なものだったとか。

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