【先代旧事本紀】天孫本紀



■ 天孫本紀所載の系譜について

巻第五「天孫本紀」は、尾張氏の系譜と物部氏の系譜について記しています。
両系譜は、記述内容の項目や記述形式が、物部氏系譜に石上神宮の奉斎記事のあることを除けば、ほぼ共通し、原資料の同時代性、もしくは編纂者による整理の行われたことを推測させます。

一方で、『旧事本紀』全体にみられる物部氏重視の姿勢は、ここでも貫かれており、両系譜の質に影響を与えています。
たとえば、尾張氏系譜では九世孫までの尊称を「命(みこと)」とし、以降を「連(むらじ)」としますが、物部氏系譜では七世孫までを同様に「命」とするものの、以降は「連(むらじきみ)」とします。物部氏への顕彰意識がより強くあらわれていることがわかります。

また、尾張氏側の伝承で当然重視されていたであろう、『記』『紀』に登場する人物(宮簀媛や目子媛など)が、ここでは脱落しています。『旧事本紀』と同じ平安時代前期に成立した『新撰姓氏録』にみえる尾治宿祢の祖・阿曽祢連も漏れており、目子媛ともども、重要人物を収録するだけの十分な世数が確保できていない点が指摘できます。

この傾向は、時代表記にもみられます。
尾張氏系譜で「某宮御宇天皇(二例)」「某宮御宇・和風諡号・天皇(一例)」「和風諡号・天皇(二例)」「和風諡号・朝(一例)」「漢風諡号・天皇(一例)」とバラつきがあり、数も限られているのに対し、物部氏系譜は三十七例中三十一例が「某宮御宇・和風諡号・天皇」で統一されています。

このように、『旧事本紀』編纂者の原資料からの取捨の仕方、整理する際の力の入れ方には、違いが見られます。
尾張氏系譜は、饒速日命を天火明命と同一視することで物部氏を天孫系に位置づけ、高倉下を天香語山命と同一視することで石上神宮への奉仕の根源の前提を語るために、利用されたと考えることができます。

物部氏系譜の原資料については不明ですが、十七世孫の物部連公麻呂が、天武朝の事績しか記されていない点が成立時期を推測させます。
この人物は、文武朝の慶雲元年(704年)に右大臣、元明朝には左大臣となった石上朝臣麻呂です。天孫本紀物部氏系譜は、大連・大臣・大祢・宿祢・足尼など、職位(官職的地位)に特に関心を払っており、麻呂の大臣就任という名誉だけが偶然に漏れたとは考えがたいです。

また、古代の人々に画期的時代と捉えられていた雄略朝の扱いにおいても、石上氏が氏族内部で権力を確立する以前の伝承を反映したと見られる部分があります。
『日本書紀』は物部目を雄略朝の大連とし、それは麻呂の薨伝(『続日本紀』養老元年三月三日)も同様で、石上氏の祖とします。しかし『旧事本紀』は物部目を、清寧朝の大連とします。
代わって雄略朝の大連にあてられるのが、依網(依羅)氏の祖である物部布都久留です。依網氏は、推古朝に冠位十二階の第二位である小徳冠を帯びて新羅征副将軍となった物部依網連乙等、隋使の導き役となった物部依網連抱といった高官を輩出し、大連家が滅亡した六世紀末以降、大化改新以前の有力氏でした。

『日本書紀』が編纂され、石上氏においても持統五年八月に墓記の上進を求められた、七世紀末~八世紀初頭ころに、天孫本紀物部氏系譜の原資料は成立し、その後の追記や改変を経たものと考えられます。


『先代旧事本紀』現代語訳天孫本紀

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