【所縁の史跡】山の辺の道周辺2/2(奈良県)

 

■ 纏向日代宮址 [地図]

桜井市穴師にあります。
景行天皇の皇居、纏向日代宮の伝承地です。

考古学的な裏づけがあるわけではなく、近世の比定によるものです。

 

■ 相撲神社 [地図]

桜井市穴師に鎮座する、相撲神社です。
祭神は野見宿祢命。

垂仁紀の七年七月七日条に、勅命を受けて当麻蹴速と闘うために出雲から呼び寄せられ、勝利したとされる人物です。
これにより、野見宿祢は相撲の元祖と見られるようになりました。

闘いの舞台となった場所が「カタヤケシ」の小字地名の残る当地といわれています。

 

■ 穴師坐兵主神社 [地図]

相撲神社の東に位置する、穴師坐兵主神社です。
『延喜式』神名帳の大和国城上郡に、「穴師坐兵主神社」がみえます。

兵主神は、古代中国の神・蚩尤のことと解釈されることが多いです。
砂や石、鉄を食べる神なので、鍛冶・製鉄に関わる氏族が祀っていたともいわれます。

『三代実録』貞観元年正月二十七日条には、大和国の従五位下勲八等穴師兵主神が正五位下へ叙されたことがみえます。


■ 景行天皇陵古墳 [地図]

天理市渋谷町に所在する景行天皇陵古墳です。
考古学からは、渋谷向山古墳という名称で呼ばれます。

『延喜式』によると、景行天皇の陵は「山辺道上陵[纏向日代宮御宇景行天皇。在大和国城上郡。兆域東西二町。南北二町。陵戸一烟。]」とされます。

慶応元(1865)年にはこの古墳に治定され、以降も踏襲されています。

柳本古墳群を構成する一基で、群内では最大の規模を誇ります。
全長三〇〇メートル、後円部径一六八メートル、前方部幅一七〇メートルの前方後円墳。

四世紀代に築かれたものと見られています。

周濠の水は農業用水として使われていた時期もあったそうです。

 

■ 水口神社 [地図]

天理市渋谷町、景行陵古墳の北側に鎮座する、水口神社です。
『延喜式』神名帳の大和国城上郡に、「水口神社」がみえます。

祭神は誉田別命。
『特撰神名牒』をはじめ、物部氏族穂積臣の祖、大水口宿祢をあてる説も有力です。

東隣りの丘が上ノ山古墳です。宮内庁によって、景行陵の陪塚に指定されています。


■ 崇神天皇陵古墳 [地図]

天理市柳本町に所在する、崇神天皇陵古墳です。
柳本行燈山古墳とも呼ばれます。

『延喜式』に崇神天皇の陵は、「山辺道上陵[磯城瑞籬宮御宇崇神天皇。在大和国城上郡。兆域東西二町。南北二町。守戸一烟。]」とみえます。

慶応元(1865)年、谷森善臣の説にもとづいて、この古墳が治定されました。
明治以降も踏襲されています。

柳本古墳群に属します。

全長二四二メートル、後円部径一五八メートル、前方部幅一〇二メートルの前方後円墳です。
全長は晋尺で一千尺ということになります。
前方部の長さの二倍が後円部の直径にほぼ等しい、美しい形をしています。

古墳時代前期の代表的古墳のひとつです。

↓アンド山古墳(北アンド山古墳)です。
崇神陵古墳が大きすぎるため目立ちませんが、全長一二二メートルというなかなかの規模です。

拝所から見おろすと、前方後円の形がよくわかります。
宮内庁によって、陪塚に指定されています。

↓南アンド山古墳です。
アンド山古墳とは、崇神陵の参道を挟んで南に向かい合う位置にあります。

東に前方部を向ける前方後円墳で、全長は六六メートルあります。
やはり、陪塚に指定されています。

 

■ 大和神社 [地図]

天理市新泉町に鎮座する、大和神社です。
『延喜式』神名帳の大和国山辺郡に、「大和坐大国魂神社」がみえます。

神武東征の功臣・椎根津彦を祖とする、大倭氏が奉斎したといわれます。
大倭国造を輩出した一族です。

祭神は、日本大国魂神、八千戈神、御年神。
本殿は三殿から成り、それぞれ中央、右、左に祀られています。

『日本書紀』崇神六年条に、疫病の流行や民の流離、反逆に悩んでいた天皇は、皇居の内に祀っていた天照大神・倭大国魂神の二神の神威を畏れ、共に住むことに不安を感じ、神々を皇女に託して祀ることにしたことがみえます。
倭大国魂神は、渟中城入姫命が祀ることになりましたが、髪が抜け落ち体は痩せ、失敗に終わりました。

翌崇神七年の八月七日、穂積臣の祖の大水口宿祢ら三人が、市磯長尾市を倭大国魂神を祀る祭主とすべしという夢のお告げを受けたといいます。

崇神七年十一月十三日条には、物部連の祖である伊香色雄に命じ物部の八十手に作らせた幣帛を以って、長尾市を祭主として倭大国魂神を祀ったことがみえます。
重ねて、八十万の群神を祀ったことにより、国内の疫病は止み、世は鎮まったといいます。

市磯長尾市は、垂仁三年三月条一云および同七年七月条に「倭直祖長尾市」とあり、大倭氏の祖であることがわかります。

『文徳実録』嘉祥三年十月七日条に、大和国大国魂神が従二位へ叙されたことがみえ、『三代実録』貞観元年正月二十七日条には従二位勲三等大和大国魂神が従一位へ叙せられたことがみえます。
大和国の国魂神として、高い地位を得ていました。

下写真は増御子神社です。
猿田彦神・天鈿女命とともに、長尾市命も祀られているようです。

神社の東側一帯に、古墳時代前期を中心に営まれた大和古墳群が分布します。
参道北側には、全長一一〇メートルの前方後円墳・馬口山古墳と、全長五六メートルの前方後方墳・星塚古墳があります。

境内社の高龗神社は、本社の左側に位置します。
大国魂神の使神である龍神を祀るといいます。

祖霊社。

大国主命と、大和神社信徒の祖霊、そして戦艦大和などに乗組んでいた英霊を祀ります。

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