【所縁の史跡】杣之内古墳群と石上・豊田古墳群2/2(奈良県)

【杣之内古墳群(続き)】

 

■ 西乗鞍古墳 [地図]

杣之内浄水場の南東、県道51号線沿いにある、西乗鞍古墳です。
公園として整備されています。

全長約118メートル、後円径約66メートルの前方後円墳です。
築造は、五世紀末ころと見られています。

墳丘上に登ることができます。
現状では、前方部と後円部に高低差がほとんどありません。

石上神宮の西側一帯、布留遺跡杣之内(アゼクラ)地区や杣之内(樋ノ下・ドウドウ)地区では、5世紀後半に豪族居館や大型倉庫が築かれました。この地域を統括する首長の王権内での地位向上が見て取れます。
そういった活躍をした首長が死後、葬られるのに、ふさわしい時期と規模なのが西乗鞍古墳です。
5世紀後半といえば、ワカタケル大王=雄略天皇の時代ですが、『日本書紀』のいう物部目や、『先代旧事本紀』の物部布都久留のような、「雄略朝の物部大連」のモデルになったのが、西乗鞍古墳の被葬者なのかもしれません。

墳丘をめぐる集濠は埋まって台地状になっています。

前方部上には「大元帥陛下駐蹕之處」の碑があります。昭和九(1934)年に行われた陸軍特別大演習の際、昭和天皇がここで視察したそうで、それを記念・顕彰するため立てられました。


■ 東乗鞍古墳 [地図]

西乗鞍古墳から東へ100メートルほどにある、東乗鞍古墳です。
全体を、木や竹に覆われています。

全長約75メートル、後円径約44メートルの前方後円墳。近年の調査では本来の全長が約83メートルに達することが明らかにされました。 甲冑の小札などが出土しています。

6世紀前半の築造と見られます。小墓古墳との前後関係は、先とするものと後とするものがあって私にはよくわからないです…。

後円部の南側に片袖の横穴式石室が開口しています。玄室内の手前に二上山白色凝灰岩をつかった組合式石棺の底石が、奥に阿蘇溶結凝灰岩製の家形石棺が残っています。

からっぽや!

和田萃氏は『古代天皇への旅』(2013年)のなかで、被葬者は継体・安閑・宣化朝の大連だった物部麁鹿火で、この阿蘇ピンク石の石棺に葬られたのではないかと述べています。

白石太一郎氏は「古墳からみた物部氏」(『古墳の被葬者を推理する』2018年)で、5世紀末から6世紀前半に杣之内古墳群で築かれた物部氏の首長墳は、6世紀後半には北の石上古墳群(石上・豊田古墳群+別所古墳群)へ移ると見、それを物部麁鹿火系から物部尾輿・守屋系への族長権の移動と関係すると見ています。
この考え方でも、東乗鞍古墳もしくは小墓古墳が麁鹿火の墓という可能性がありそうです。

石室の奥のほうが土砂で埋まっている…と思ったら、後円部の墳頂が大きく窪んでいました。


■ 夜都岐神社 [地図]

天理市乙木町に鎮座する、夜都岐神社です。
『延喜式』神名帳の大和国山辺郡に、「夜都岐神社」がみえます。

春日神社としての歴史を持ち、祭神は武甕槌神、経津主命、比売大神、天児屋根命とされます。八剣神社と関連する社号だったとすれば、剣神とのつながりがあるのかもしれません。

社地を宮山といい、一説には前方後円墳を削平して社殿が建立されたといいます。

後背の丘の上には、直径10メートル~8メートル前後の円墳が四基並んでいるようです。


【石上・豊田古墳群】

 

■ ウワナリ塚古墳 [地図]

天理市石上町にある、ウワナリ塚古墳です。

前方部を北に向ける前方後円墳で、墳丘全長は約110メートルあります。前方部西北側に方形の造り出しがあるほか、前方部の前面にも平坦面があり、ここまで含めると全長は約128メートルになります。

築造時期には諸説ありましたが、近年は6世紀後半と見るのが有力なようです。
そうすると、欽明朝に大連に任じられたという物部尾輿が被葬者候補に入ってくるでしょうか。

南側に、両袖の横穴式石室が開口しています。
玄室の長さは6.8メートル、幅約3メートル、高さ3.6メートルで、羨道の長さが現存で3.5メートルほどですがもとは9メートル程度あったと見られます。巨大な石室です。


■ 石上大塚古墳 [地図]

天理市石上町の石上大塚古墳です。ウワナリ塚古墳の西隣りにあります。

墳長は約107メートル、後円部径は67メートル、前方部幅は82メートルの前方後円墳。

6世紀中頃に築かれたと見られます。

墳丘の裾を、南側に周りこんでいくと、後円部に石室があります。
封土も天井も、すっかり無くなって下部しか残っていませんが、その大きさは実感できます。ウワナリ塚古墳よりも先行する石室形態が指摘されています。


■ 別所大塚古墳 [地図]

天理市別所町にある別所大塚古墳です。斬池の北にある丘が古墳です。

墳丘全長約125メートル、後円部径約80メートル、前方部幅は105メートルの大型前方後円墳。
築造時期を判断する決め手に欠けるそうで、6世紀前半とする見方と、6世紀後半とする見方があります。

鉄鏃・刀・鎧・金銅の鈴などが出土したといわれます。
後円部に横穴式石室があったと見られますが、石材はすっかり持ち去られてしまったようで、残っていません。
その痕跡として奥行き20メートルにもなる大きな削平の跡があり、石室の規模もかなりのものだったと考えられます。

↓後円部の墳頂付近。

小栗昭彦氏によって、出土の伝えがある石棺材から、棺身の長さ306センチ、幅217センチ以上、高さ約159センチという超巨大組合式石棺が推定されています。その特徴からは、6世紀前半の築造が支持できるそうです。
その場合は、物部麁鹿火に被葬者の可能性が出てきます。

白石太一郎氏は、前方部からくびれ部の頂部平坦面の幅が広く、その形態が五条野丸山古墳と共通することから、6世紀の第4四半期の築造を考えています。

五条野丸山古墳は真の欽明天皇陵、あるいは蘇我稲目の墓と目される古墳です。6世紀後半説をとる場合、おなじ欽明朝に活躍した物部尾輿大連が被葬者にふさわしいと思います。

東側の丘の斜面から見ました。竹林のなかに、前方部が透けて見えます。

 

参考文献(文中に挙げなかったもの):
石田大輔「物部氏の奥津城」 天理市観光協会『「大和の中のヤマト」シンポジウムin東京国立博物館 ここまで判った物部氏-考古学の調査研究成果から-』
石田大輔「大和布留遺跡における歴史的景観の復元 VIII.布留遺跡周辺の古墳群」 由良大和古代文化研究協会『研究紀要 第24集』
石野博信編『全国古墳編年集成』
置田雅昭「禁足地の成立」 和田萃編『大神と石上』
小栗明彦「物部氏の古墳6基の詳細検討」 ナベの会『和の考古学』
小栗明彦・小栗梓「布留遺跡周縁の大型古墳の被葬者像」 白石太一郎傘寿記念論文集編集委員会『古墳と国家形成期の諸問題』
加藤謙吉『大和の豪族と渡来人』
加藤謙吉『蘇我氏と大和王権』
天理参考館・天理市教育委員会『物部氏の古墳 杣之内古墳群』
天理市教育委員会『天理の古墳100』
日野宏「大和における首長系譜の一例」 『天理大学学報 第145輯』
日野宏『物部氏の拠点集落 布留遺跡』

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