【所縁の史跡】杣之内古墳群と石上・豊田古墳群1/2(奈良県)

天理市の杣之内町・勾田町・乙木町周辺一帯に点在する古墳たちを杣之内古墳群といい、石上町・別所町・豊田町一帯の古墳群を石上豊田古墳群といいます。

現在の天理市街地に重なるように、約1.5km四方にわたって広がるのが「布留遺跡」です。周辺一帯を支配していた集団の奥津城は、この遺跡によって杣之内古墳群と石上豊田古墳群の南北に分断されることになったようです。

四世紀中頃から後半と見られる西山古墳と小半坊塚古墳の後、しばらく首長墳の造営は断絶し、五世紀後半から六世紀にかけて多数の古墳が築かれます。断絶期には石上神宮が創祀(禁足地が成立)することや、布留遺跡で鍛治遺跡の増加、居館遺跡が確認されるようになることなどから、在地豪族の力が衰退し、王権の勢力が扶植されていく過程が想定できます。

この、王権勢力の一翼をにない、五世紀後半~六世紀にかけて盛んに造墳活動を行った集団が、物部氏と見られています。
前方後円墳集成 近畿編』によると、奈良盆地にかかる古墳時代後期の墳丘全長50m以上の古墳は、合計三十三基確認されているそうです。各郡ごとの地域で見ると、当地域(山辺郡)はそのうち十基を占め、最も活発に大型古墳が築かれた地域です。

これは、五世紀末から六世紀にかけて、この地域に大きな勢力を誇った集団の存在したことを裏づけ、物部氏が雄略朝に最高執政官として台頭したとする文献史学の説の蓋然性を高めているといえます。



【杣之内古墳群】

■ 西山古墳 [地図]

奈良県天理市杣之内町にある西山古墳です。
全国最大の前方後方墳として知られ、国指定の史跡にもなっています。

墳丘全長185メートル、後方部辺93メートルに復元されます。

後方部の二段目以上が円形という面白い形です。

安本美典氏が『巨大古墳の被葬者は誰か』(1998年)のなかで、物部の十千根、大新河、武諸隅の名前を挙げて「物部氏関係の墳墓ではないか」と言っている古墳です。どうなんでしょうか。

墳丘の上からは、龍王山方面がよく望めます。


■ 塚穴山古墳 [地図]

天理市杣之内町・御経野町にある、塚穴山古墳です。
西山古墳の北隣りにあります。

幅約13メートルの周濠をもつ、直径約65メートルの大型円墳です。
墳丘や、石室の石材はかなり失われてしまっていますが、残った部分で往時の立派な姿を偲ぶことができます。
石室は全長約17メートルという巨大なもの。玄室の長さは7メートルあります。

天井石がないので、 周濠に立つと遠〜〜〜くの奥壁まで見えて、その巨大さが実感できます。

石室は石舞台式に分類され、築造時期も石舞台古墳とおなじ7世紀前半と見られます。

物部大連家は6世紀末にすでに滅んでいるため、このような有力な規模の古墳の位置づけを難しくしています。
個人的には、石舞台古墳に葬られたとみられる蘇我馬子の妻で、物部守屋の妹、蘇我蝦夷の実母である女性を被葬者にあてるのがいいのかな、と思っています。
ここは西山古墳と消滅した小半坊塚古墳・布留宮東古墳という古墳時代前期ころに築かれた前方後円墳・前方後方墳に周りを囲まれた場所にあり、伝統的な権威の継承をあえて主張するため、無理に入り込んでいる印象を受けます。母方の財を利用して権勢をほこり(『日本書紀』皇極二年十月)、石上神宮の祭祀権への介入など物部権益の収奪にあたった蘇我蝦夷にとって、母をまつりあげることは自分の権威を正当化することでもありました。
そのような状況が、蘇我系物部氏とでもいうべき彼女を被葬者にするに合うように思うからです。

小栗明彦氏・小栗梓氏が共著で、用明天皇の皇后の穴穂部間人皇女や、用明の子で穴穂部間人皇女の再婚相手でもある田目皇子、用明と穴穂部間人皇女の間にうまれた厩戸皇子を被葬者に考えています。
安康天皇の名代部を称する穴穂部は、石上穴穂宮を経営のセンターにしていたと考えられ、この地域の有力者に該当するだろうということです。

穴穂部間人皇女の墓については、『延喜式』に間人女王の竜田清水墓があります。孝徳天皇の皇后の間人皇女にあてがちですが、斉明天皇陵に合葬されており、斑鳩に近い竜田にあるのは穴穂部間人皇女の墳墓にあてるべきでしょう。
彼女は穴穂部と泥部(間人)を弟で同名の穴穂部間人皇子と共有しており、この穴穂部皇子は物部守屋が皇位に擁立しようとして失敗し、殺害されています。『日本書紀』の崇峻即位前紀には、蘇我馬子と推古の意を受けた佐伯丹経手らの率いる兵士が、穴穂部皇子の「宮」を襲撃したとされます。

皇子の死後、穴穂部王家は後ろ盾の物部氏のちからを失ってもそのまま石上地域での支配力を持ち続けたのか、斑鳩の上宮王家に家産を集中させるようなことはなかったのか、同時代の石舞台古墳(馬子)や山田高塚古墳(推古)に匹敵する人物として、間人皇女や田目皇子はふさわしいのか、先述の「蘇我氏の物部収奪」との関係をどう見るか、など、解決しなくてはならない問題はありそうです。


■ 峯塚古墳 [地図]

天理市杣之内町の峯塚古墳です。
石上神宮から神宮外苑公園の丘を挟んで南の丘の上にあります。

 直径35.5メートルの円墳です。
七世紀中葉ころの築造とみられています。

切石による巨石積の横穴式石室の全長は11.1メートル。岩屋山式に分類されます。

天理砂岩の切石で葺石されているそうです。

被葬者はこの地域にゆかりで、身分の高い人ということになります。ふたり思いつきました。

ひとりは舒明天皇の子、古人大兄皇子です。(皇族説)
蘇我氏の母を持ち、蘇我入鹿が皇位に擁立しようとしていたのではないかと見られる有力な皇子でした。母の縁で、蘇我氏支配下の石上布留地域で育てられたため、古人(布留の人)と称されるようになったのでしょう。箸墓古墳のある大市に拠点を持っていたことが知られますが、大市も物部氏と関係が深い地です。
乙巳の変後は吉野へ隠棲しますが、謀反の疑いをかけられ西暦645年に殺害されてしまいました。

もうひとりは、物部宇麻乃(物部連宇麻呂)です。(物部氏説)
元明朝の左大臣・石上麻呂の父です。『続日本紀』養老元年三月の石上麻呂薨伝によると、宇麻呂は「難波朝衛部大華上」が極位極官だったといいます。「難波朝」=孝徳朝は西暦645年から654年。「大華上(大花上)」の含まれる冠位十九階制は、大化五年(649年)から天智三年(664年)の間に行われていました。
つまり、正四位に相当する大花上冠で衛部の長官という大化改新政府の高官マヘツキミにあった宇麻乃は、西暦649年から654年までの五年間のどこかで死去した可能性が高いです。
息子の麻呂は天武朝に物部連から石上朝臣へ改氏姓しており、物部氏のなかでも石上地域を本拠にする出自がわかります。父の宇麻乃も石上を本拠とすることは同じでしょう。


■ 小墓古墳 [地図]

天理市杣之内町にある、小墓古墳です。「オバカ」ではなく、「コバカ」と読むようです。
浄水場の裏手にあります。

1987年、89年の調査では、多数の木製品が出土しました。築造は6世紀前半と見られています。
埴輪の時期では高取町の市尾墓山古墳に併行するそうです。

墳丘全長は現状で80.5メートル。本来の姿は約85メートルに復元され、後円径約50メートルの前方後円墳です。

墳丘は後世の削平を受けて低くなっています。
すっかり畑でした。

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