【所縁の史跡】志貴御県坐神社(奈良県)

 

■ 志貴御県坐神社 [地図]

奈良県桜井市金屋に鎮座する、志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社です。
大神神社の拝殿の前から、山辺の道を500メートルほど南へ行ったところにあります。

『延喜式』神名帳の大和国城上郡に、「志貴御県坐神社」がみえます。

『三代実録』によると、貞観元年正月二十七日に、大和国の志貴御県神の神階が従五位下から従五位上へ昇ったことがわかります。

『新撰姓氏録』の大和神別に、志貴連は「同じき神(饒速日命)の孫、日子湯支命」の後裔、和泉神別に、志貴県主は「饒速日命の七世孫、大売布」の後裔とされます。

また、『旧事本紀』天孫本紀には、宇摩志麻治命の七世孫・建新川命を「倭志紀県主」、同八世孫の物部印岐美連を「志紀県主」の祖であるといいます。

そのため、物部氏の祖神の天津饒速日命を祭神にあてる説が有力です。
ほかには大己貴命をあてる説などがあります。

磯城県主について、神武紀は、弟磯城(名を黒速)をその始祖とします。
『日本書紀』ではそれ以上の説明は無く、系譜的な位置づけは不明なままです。
平安初期に至り、より合理的な解釈が求められるようになって、『姓氏録』にあるような付会が行われ、この氏も物部氏の同族とされるようになったのでしょう。

『日本書紀』本文は孝霊天皇の皇后を磯城県主の娘の細媛とするほか、一書に綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇の皇后も磯城県主の一族に出自を持つとしています。
『古事記』も同様で、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇について、師木県主の一族から后妃を立てていたといいます。

崇神天皇の磯城瑞籬宮の比定地として、石碑が立っています。

崇神天皇の母は、『日本書紀』によると、開化天皇の皇后である伊香色謎命で、物部氏の遠祖・大綜杵の娘であるとされます。

拝殿の右側に、小さな岩が並んでいます。
磐座といわれます。

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