【所縁の史跡】「物部守屋墳墓」と大聖勝軍寺(大阪府)

 

■ 物部守屋墳墓 [地図]

大阪府八尾市東太子の「物部守屋大連墳」です。
太子堂交差点の西側すぐにあります。

『河内志』に、「物部守屋墓、在太子堂村、傍有鏑矢塚」とみえ、『河内名所図会』の勝軍寺境域図の右下にも「守屋塚」がみえます。

『名所図会』には塚状の丘の上に一本松のある姿で描かれていますが、幕末には荒廃し、削平されてしまったようです。
明治初年に堺県令小河一敏の指示によって整備されました。現在の墓碑、石鳥居、右側の灯篭一基は、そのとき設けられたものです。

物部守屋薨後千三百五十年には、右奥にある「何ぞ国神に背きて、他神を敬せんや」の碑が建てられました。『日本書紀』に、守屋が仏教導入に反対して言ったとされる言葉です。
左奥の物部守屋公顕彰碑は、薨後千三百八十年の記念事業で建てられたものです。

昭和六十二年の千四百年祭のときには、全国の有名神社の寄付によって、石玉垣が設けられました。

仏敵として長い間辱められてきた物部守屋ですが、明治以降は神道界から顕彰を受けているのがわかります。

以下は、大阪府神社庁による顕彰碑文です。

「物部守屋公顕彰碑

物部守屋公は建国の功臣饒速日命の裔にして代々宮廷を守護し武を司る家門に生れ給ひ往古の八尾を中心とする河内一帯の地は其の所領たりき。 我国に始めて仏教渡来するや国風たる神ながらの道統を護持せんと父公尾輿の固き志を継ぎ用明天皇二年何ぞ国神に背き他神を敬せんやと断じ蘇我馬子と激しく対立。公は河内に帰り一族を挙り此の地に干戈を交えて幾度か勇戦奮闘せられしも時に利あらず同年七月七日遂に果敢くも陣歿せられぬ。 嗚呼然れとも公の純乎たる憂国の精神は永く日本人の道を照さずてあるべき春風秋雨幾星霜 当墓所は今日八尾市の史蹟として最古の墳墓たるのみかは遠く郷土の領主としてとして其の遺徳を仰ぎつつ大正九年より吾等先輩祀職年毎に墓前を修め来りて愈々懇なり。今年一千三百八十年祭を迎ふるに際り茲に年来の司祭を記念し碑を建て聊か黄泉の英雄を慰め奉ると云爾。

昭和四十二年六月吉辰 大阪府神社庁中河内分会建之」

 

■ 鏑矢塚 [地図]

物部守屋墳から国道25号線を挟んで南にある、鏑矢塚です。

室町時代後期に書かれたという大聖勝軍寺の寺伝『大聖勝軍寺略縁起』に、迹見赤檮が守屋を射た際の矢を埋めた場所とあるそうです。
『河内志』にも、「物部守屋墓、在太子堂村、傍有鏑矢塚」とみえます。

塚と称しますが、土盛はありません。
昭和五年に旧龍華町が建てた碑だけがあります。

『河内名所図会』には、この場所は「御戦場」と書かれています。

飲食店等の看板に埋もれています。

 

 ■ 弓代塚 [地図]

弓代塚です。
迹見赤檮が守屋大連を射たときに使った、弓を埋めたところとも、矢を放った場所ともいいます。

鏑矢塚と同様、既に塚は無く、昭和五年に碑が建てられています。
龍華中学校の南側、住宅地の中にあります。


■ 大聖勝軍寺 [地図]

八尾市太子堂の椋樹山大聖勝軍寺です。
物部守屋墳や鏑矢塚とは、目と鼻の先の位置にあります。

太子町にある叡福寺の「上の太子」、羽曳野市にある野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と称されます。

一帯は、物部守屋の阿都の家があったと見られる地域で、寺伝には、四天王寺と同じく丁未の乱からまもなく創建したとされます。
ただし、古代史料における記載や七世紀代にまでさかのぼる伽藍遺構はともに確認されておらず、時期については疑問の持たれるところです。

聖徳太子縁故を称する寺院のなかでも珍しく、聖徳太子自身が本尊とされています。

門前には「仏法元始 聖徳太子古戦場」の碑や、討たれた物部守屋の首を洗ったという「守屋池」があります。

境内には「神妙椋樹」があります。
中世以降の太子伝では有名なエピソードで、聖徳太子に敵が迫ったとき、椋の幹が開き、太子はその中に隠れて助かったとされています。

寛文六(1666)年版の『聖徳太子伝』は一般向けの出版物としては最も古い太子伝です。
そこには次のように記されています。

「彼木は、当代まで神妙椋の木とて、これあり。大聖の化儀、ふしぎの御事なり。のちに、かの所に、寺をたて給ひける也。野中にてありしかば、いまも野中寺といふ。又、大聖勝軍寺とも云、太子堂とも申。太子十六歳の御影を、本尊とあがめたてまつる也。当時の木は、生へかはりて侍るなり」

神妙椋の話は、当初からこの場所で起こった出来事とされていたわけではありません。近世に至り、当地のエピソードとして著名になりました。

物部守屋墳をはじめ、鏑矢塚、弓代塚、守屋池、神妙椋などは、大聖勝軍寺が聖徳太子とのつながりを主張し、他の太子ゆかりの寺院に対抗して、その尊貴性を述べていくなかで、生まれてきたものと見られるでしょう。

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