【所縁の史跡】 辛国神社と仲哀天皇陵古墳(大阪府)

 

■ 辛国神社 [地図]

大阪府藤井寺市藤井寺一丁目に鎮座する辛国神社です。近鉄藤井寺駅から南に200メートルほどのところにあります。

『延喜式』神名帳の河内国志紀郡に、「辛国神社」がみえます。

『姓氏禄』の摂津国神別に物部韓国連は伊香我色雄命の後裔、和泉国神別に韓国連は采女臣同祖とあります。
物部氏の同族に、韓国(からくに)氏のいたことがわかります。

また、続日本紀の延暦九年十一月十日によると、韓国連源らが、自分たちは物部大連の末裔であり、物部氏族は住地と職掌によって多くの氏に分かれていて、韓国連も先祖が使者として遣わされた国の名によって、このウジ名を名乗るようになったことを述べています。
そして、渡来人のような名を用いることを嫌って改姓を申し出て、許可を得たといいます。

祭神は、
物部氏の祖神の饒速日命、室町時代に奈良の春日大社から勧請された天児屋根命、明治に合祀された長野神社の素盞嗚命といいます。

配祀神には、品陀別命と市杵島姫命がいます。

雄略紀十三年三月条に、物部目大連が、ここ餌香の長野邑を賜ったとあります。
この一帯を治めることになった物部氏が、祖神を祀ったことに辛国神社は始まるとされています。

百済辰孫王系の白猪氏(葛井氏)が関与したとする説もあるようです。

末社の春日天満宮は近年、北野天満宮から勧請したそうです。

鳥居から近い路上に、「仲哀天皇御陵参道」と書かれた標柱がありました。

「参」の字から下が埋まってますが、たぶんそうです。


 

■ 仲哀天皇陵古墳 [地図]

大阪府藤井寺市藤井寺にある、岡ミサンザイ古墳です。辛国神社からは南へ300mも行けば水をたたえた周濠を見ることができます。
「第14代」仲哀天皇の陵、「恵我長野西陵」に治定されています。

ただし、周堤出土の円筒埴輪や、墳丘の形状からは、5世紀末の築造が有力といわれます。
実在するとみれば4世紀の人物らしい仲哀天皇の陵とみることは疑問視されています。

5世紀後半に在位した雄略天皇の現行治定される陵は円墳で、この時代の大首長墳としては不自然なことから、この岡ミサンザイ古墳をあてる説があります。

また、雄略朝に、ここ「恵我(餌香)の長野」を天皇から与えられたという人物が『日本書紀』には登場します。
上述の物部目大連です。
目大連は、采女の山辺小嶋子を奸した歯田根命を問責し、歯田根命が馬八頭・大刀八口をもって謝罪しようとする旨を天皇に奏上しています。この功績によって、餌香長野邑を賜ったというものです。

そのため、この古墳の被葬者に目大連をあてる見解が、安本美典氏らによって出されています。

墳丘全長は約242メートル、後円部径148メートル、前方部幅182メートル。

仲哀天皇真陵には、墓山古墳、仲津姫命陵古墳、津堂城山古墳をあてる説があります。

↓仲哀陵古墳と辛国神社の中間あたりにある、鉢塚古墳。
墳長60メートルほどの前方後円墳で、西に前方部を向けていたと見られていますが、現状ではよくわかりません。 築造時期は仲哀陵古墳とほぼ同じと推定され、陪塚の可能性が高いようです。

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