【所縁の史跡】謁播神社(愛知県)

 

■ 謁播神社 [地図]

愛知県岡崎市東阿知和町の謁播神社です。
『延喜式』神名帳の参河国額田郡に、「謁播神社」があります。

参河国内神名帳には、額田郡に「正三位 謁磐大明神」のあったことが知られます。

また、『文徳実録』仁寿元年十月七日には、参河国の謁磐神が従五位下の神階に叙せられたことが見えます。

祭神は、知波夜命。
春日大神を配祀するといいます。

境内の由緒書(ふたつあったが拝殿のほう)には、当社の創祀について、産子の家に伝える古文書にある話として、

白鳳年間に弘文天皇が参河に行幸し、そのとき大変な悪天候に襲われたものの、突如紫雲が空中にたなびき、妙音が放たれると暗雲はたちまちに消え去って天皇の危難が救われたといいます。この奇跡を起したのが謁播明神で、天皇は侍臣のひとりを当地に残してこの神を祀らせるようになった…とされています。

この侍臣の後裔が旧社家の安藤氏なのですが、「藤原の末裔なるも神との同姓を恐れ、安藤に改めたり」ともあるので、主祭神の知波夜命ではなく、春日大神との関わりの中で生まれた伝えなのかもしれません。

知波夜(ちはや)命は『旧事本紀』国造本紀に見え、物部連の祖・出雲色大臣命の五世孫であり、成務朝に参河国造に任じられたとされます。
矢作川流域に勢力を持った参河国造は物部氏族だったようです。

『大同類聚方』は「穴加差薬、三河国額田郡謁播神社之宮造額田部連長之薬方」…云々と記します。
古くは額田部連氏が当社の祭祀に携わっていたようです。額田部氏は、その名称から、額田郡地域ではかなり有力な氏だったことが想像されますが、これも物部氏同族だったのでしょうか。

ところで、『姓氏録』大和国神別に長谷部造は、神饒速日命の十二世孫、千速見(ちはやみ)命の後裔とあります。同氏族の伝承で、名称が類似する知波夜命と千速見命。もしかしたら同一人物から世代数などの点で異伝が生じたものかもしれませんね。

社殿は、矢作川の支流、青木川のほうを向いています。

近くの於新造古墳(牛下山古墳)が祭神の墳墓ともいわれるらしいです。
西阿知和町於新造の丘陵上にある帆立貝形前方後円墳で、全長42mあります。
出土の円筒埴輪は矢作川流域では最古に位置づけられるもので、四世紀後半の築造と見られています。

於新造古墳の周囲半径120mほどの範囲内には、北山一号~三号墳、下山田一号~三号墳、東簗井場古墳などが確認されています。


■ 七所神社 [地図]

愛知県岡崎市百々町に鎮座する、七所神社です。
謁播神社の南西400mほど、周りを住宅地に囲まれた丘の上にあります。

祭神は、櫛玉饒速日命、可美真手命、味饒田命、彦湯支命、大祢命、出雲醜大臣命、出石心大臣命です。
すべて『旧事本紀』天孫本紀に登場する物部氏の神・人物で、出雲醜大臣命の後裔が三河国造とされます。

天文十一年に今川義元が松平広忠を援けて織田信秀と戦った際、兵火に罹って古記の類いが失われたため、創建年代等は不明と称します。

境内には、西池ノ入一号墳という古墳があったそうですが、よくわかりませんでした。

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