【関連資料】采女氏塋域碑

■ 采女氏塋域碑(うねめしえいいきひ)文

飛鳥浄原大朝廷大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

[書き下し]飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。 己丑年十二月二十五日。


采女臣竹羅の墓所について公認を得て示した碑。現在は所在不明で、拓本のみ伝わります。
己丑年=持統三年と見られます。采女竹良卿(采女臣竹羅)については『日本書紀』にその活動が見え、天武十年に小錦下冠で遣新羅大使、天武十三年に信濃の地勢検査へ遣わされ、同年臣姓から朝臣姓を賜り、天武十四年に大安殿にて博戯が催された際は天皇の衣袴を賜り、朱鳥元年天武天皇崩御に際しては内命婦の事を誄したことがわかります。
形浦山は大阪府南河内郡太子町春日の現「片原山」(地図)。

 

狩谷望之編『古京遺文』を基に作成。
参考: 竹内理三編『寧楽遺文』下巻、近江昌司「采女氏塋域碑について」 日本歴史学会『日本歴史』431、同「妙見寺と采女氏塋域碑」 古代学協会『古代文化』464

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