【関連資料】『高橋氏文』



書き下し

■ 『本朝月令所引

高橋氏文に云はく、
挂けまくも畏き巻向日代宮(まきむくのひしろのみや)に御宇(あめのしたしろ)しめしし大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)の五十三年癸亥八月、群卿に詔りて曰く、「朕愛し子を顧ぶこと何日にか止む、小碓王(をうすのみこ)[又の名は倭武王(やまとたけるのみこ)]の平之国(ことむけしくに)を巡狩むと欲ふ」と。是の月、伊勢に行幸し、転りて東国に入りたまふ。冬十月、上総国安房の浮島宮に到ります。その時磐鹿六獦命(いはかむつかりのみこと)従駕に仕へ奉りき。
天皇葛餝野(かつしかのの)に行幸して御獦したまひき。大后八坂媛(やさかひめ)は借宮(かりみや)に御坐しまし、磐鹿六獦命もまた留り侍りき。
此の時大后、磐鹿六獦命に詔りたまはく、「此の浦に異しき鳥の音聞ゆ。其れ駕我久久と鳴けり。其の形を見まく欲す」とのりたまふ。即ち磐鹿六獦命、船に乗りて鳥の許に到れば、鳥驚きて他浦に飛びき。猶し追ひ行けども遂にえ捕へず。是に磐鹿六獦命詛曰く、「汝鳥、其の音を恋ひてかたちを見まく欲するに他浦に飛び遷りて其の形を見しめず。今より後、陸にえ登らざれ。若し大地の下に居らば必ず死(まか)りなむ。海中を以て住処とせよ」といひき。
還る時に舳を顧みすれば魚多く追ひ来。即ち磐鹿六獦命、角弭の弓を以て遊べる魚の中に当てしかば、即ち弭に著きて出でて忽ちに数隻を獲つ。仍ち号づけて頑魚(かたうを)と曰ふ。此を今の諺に堅魚(かつを)と曰ふ。[今、角を以て釣柄を作り堅魚を釣るは此の由なり。]
船潮の涸るるに遇ひて渚の上に居ぬ。掘り出さむとするに、八尺の白蛤一具を得つ。磐鹿六獦命件の二種の物を捧げて太后に献りき。
かれ、太后誉め給ひ悦び給ひて詔りたまはく、「甚味く清く造りて御食に供へまつらむ」と。その時磐鹿六獦命申さく、「六獦料理(つくら)せて仕へ奉らむ」とまをして、 無邪志国造(むさしのくにのみやつこ)の上祖大多毛比(おほたもひ)、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の上祖天上腹(あまのうははら)、天下腹(あまのしたはら)人等を喚ばしめて、膾につくり、また煮焼きしてくさぐさ造り盛りて、阿西山の梔の葉を見て、高すき八枚に刺し作り、真木の葉を見て、枚すき八枚に刺し作りて、日影を取りて、鬘(かづら)とし、蒲の葉を以て美頭良(みづら)を巻き、まさけ葛を採りてたすきにかけ、帯にし、足纒を結ひて、くさぐさの物を供へ結ひ餝りて、乗輿、御より還り入り坐す時に供へ奉らむとす。
此の時勅りたまはく、「誰が造りて進れる物ぞ」と問ひ給ふ。その時大后奏したまはく、「此は磐鹿六獦命の献れる物なり」と。即ち歓び給ひ誉め賜ひて勅りたまはく、「此は磐鹿六獦命ひとりが心には非じ。斯の天に坐す神の行ひ賜へる物なり。大倭の国は行ふ事を名に負する国なり。磐鹿六獦命は朕が王子等に、あれ子孫の八十連属に遠く長く、天皇(すめら)が天津御食を斎ひ忌はり取り持ちて仕へ奉れ」と負せ賜ひて、則ち若湯坐連(わかゆゑのむらじ)が始祖、物部意富売布連(もののべのおほめふのむらじ)の佩ける大刀を脱き置かしめて副へ賜ひき。
又「此の行なふ事は、大伴立ち雙びて仕へ奉るべき物と在れ」と勅りたまひて、日の竪、日の横、陰面、背面の諸国人を割ち移して、大伴部(おほともべ)と号づけて、磐鹿六獦命に賜ひき。又、諸の氏人、東方の諸国造十七氏の枕子各一人づつ進らしめて、平すき、比例、給ひて依さし賜ひき。
「山野海河は多爾久久のさわたるきはみ、加幣良のかよふきはみ、波多の広物、波多の狭物、毛の荒物、毛の和物、くさぐさの物どもを供へ、兼摂(ふさね)取り持ちて仕へ奉れ」と依さし賜ふ。
「かく依さし賜ふ事は、朕がひとりの心に非ず。是は天に坐す神の命ぞ。朕が王子磐鹿六獦命、諸友諸人等を催し率て、慎み勤み仕へ奉れ」と、仰せ賜ひ誓ひ賜ひて依さし賜ひき。
是の時、上総国の安房の大神を御食都神と坐せ奉りて、若湯坐連等が始祖、意富売布連の子、豊日連(とよひのむらじ)をして火を鑚らしめて、此を忌火として、いはひゆまへて、御食に供へ、また大八洲に像(かたど)りて、八をとこ八をとめ定めて、神嘗大嘗等に仕へ奉り始めき。[但し安房の大神を云ひて御食神と為すは、今大膳職の祭る神なり。今忌火を鑚らしむる大伴造は物部豊日連の後なり。]
同じき年十二月に乗輿東より還りて、伊勢国綺宮(かむはたのみや)に坐します。五十四年甲子九月、伊勢より倭の纒向宮に還ります。
五十七年丁卯十一月、武蔵国知々夫の大伴部の祖、三宅連意由(みやけのむらじおゆ)、木綿を以て蒲の葉に代へて、美頭良を巻きき。此れより以来、木綿を用て日影等の葛に副へて用るなり。
纒向の朝廷の歳次癸亥、始めて貴き詔勅を奉りて膳部臣(かしはでのおみ)の姓を賜りて、天つ御食をいはひゆまはりて仕へ奉り来ぬ。今の朝廷の歳次壬戌にいたる迄あはせて三十九代、積年六百六十九歳なり。[延暦十一年]

 

■ 『政事要略所引

高橋氏文に云はく、
六雁命七十二年秋八月、病を受けて同じ月に薨りき。時に天皇、聞こしめして大く悲しみ給ひ、親王の式に准へて葬りを賜ひき。宣命の使、藤河別命(ふぢかはわけのみこと)、武男心命(たけをこころのみこと)等を遣はす。宣命に云はく、
天皇が大御言らまと宣り給はく、王子六獦命思ほさざる外に卒り上りたりと聞こしめし、夜昼に悲しみ愁へ給ひつ大坐します。天皇の御世の間は平らにして相見そこなはさむと思ほす間に別れゆけり。
然あれば今思ほしめす所は、十一月の新嘗の会も膳職の御膳の事も、六雁命の労き始めなせる所なり。是をもて六雁命の御魂をば、膳職にいはひ奉りて、春秋の永き世の神財と仕へ奉らしめむ。子孫等をば、長き世遠き世の膳職の長とも、上総国の長とも、淡国(あはのくに)の長とも定めて、余の氏はまけたまはでをさめたまはむ。もし膳臣(かしはでのおみ)等の継ぎてあらざらむには、朕が王子等をして他の氏の人等を相交へては乱らしめじ。
和加佐(わかさ)の国は六雁命に永く子孫等が遠き世の国家とせよと、定めて授け賜ひき。此の事は世々にし過り違へじ。此の志を知りたびて、よく膳職の内も外も護り守りたびて、家(みや)の患ひの事等もなく在らしめ給ひたべとなむ思ほしめすと申すと宣りたまふ天皇の大御命らまを虚つ御魂も聞きたべと申すと宣りたまふ。

 


 

現代語訳



■ 『本朝月令所引

高橋氏文にいう。
口に出すのも恐れ多い巻向日代宮(まきむくのひしろのみや)で天下をお治めになった景行天皇の治世五十三年八月、天皇は群卿たちに詔して仰せられた。
「私が愛しい子を思うことは、いつになったらやむであろうか。小碓王(おうすのみこ)[またの名を倭武王(やまとたけるのみこ)]が平定した国を巡ってみたいと思う」
この月に、伊勢へ行幸になり、さらに東国へ入られた。冬十月、上総国安房の浮島宮へご到着された。このとき、磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと)も天皇の一行に従っていた。
天皇は葛飾野(かつしかのの)へ行幸して、狩りをされた。そのとき、大后の八坂媛(やさかひめ)は仮の宮にいらっしゃり、磐鹿六獦命もまた、留まって大后にお仕えしていた。
このとき、大后が磐鹿六獦命に仰せられた。
「この浦で、霊妙な鳥の鳴き声が聞こえた。それは、“ガクガク”と鳴いていた。その姿を見たいと思う」
そのため、磐鹿六獦命が船に乗って鳥のところまで行くと、鳥は驚き、他の浦へ飛んでいった。なおも追いかけて行ったが、ついに捕らえることはできなかった。そこで、磐鹿六獦命は呪いをかけていった。
「鳥よ、お前の声を慕って姿を見たいと思ったのに、他の浦に飛び移って姿を見せなかった。今から以後、陸に上がってはならぬ。もし陸に降りることがあるならば、必ず死ぬぞ。海中を住処とせよ」
帰るとき、船の艫のほうを振り返って見ると、魚がたくさん追いかけてきた。そこで、磐鹿六獦命が角弭の弓を泳ぐ魚たちのなかに入れると、魚が弭にかかってきて、たちまちたくさんの魚を獲ることができた。そこで、その魚を名づけて、“頑魚(かたうお)”と呼んだ。これを今の言葉で“カツオ”という。[今、角を釣り針の柄をにしてカツオを釣るのは、これに由来する]
船は潮が引くことに遭って渚の上に乗り上げ、動けなくなった。船を掘り出そうとすると、大きな白い蛤がひとつ出てきた。磐鹿六獦命は、カツオと蛤の二種類の品物を捧げて、大后に献上した。
すると大后は、そのことをお誉めになりお喜びになって仰せられた。
「それをおいしく美しく料理して、天皇のお食事に差し上げなさい」
そのとき、磐鹿六獦命は、「六獦が料理をさせて奉りましょう」と申し上げ、無邪志国造(むさしのくにのみやつこ)の上祖・大多毛比(おおたもひ)、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の上祖・天上腹(あまのうわはら)、天下腹(あまのしたはら)の一族らを喚び寄せ、膾をつくり、煮炊きして、さまざまに料理し盛りつけて、阿西山の梔の葉を選び採ってきて高坏八枚を作り、真木の葉を選んできて平坏八枚を作り、ヒカゲノカズラを取って鬘とし、蒲の葉で角髪(みずら)を巻き、まさけの葛を採って、襷にかけ帯とし、足結を結んで、天皇に供するさまざまな物を美しく整えて、狩りからお戻りになり、宮へお入りになったときに献上しようとした。
このとき、天皇が仰せになるには、「これは、誰が料理して進上したものか」とお尋ねになった。そこで、大后が申し上げた。
「これは磐鹿六獦命が献上したものです」
すると天皇はお喜びになり、お褒めになって仰せになられた。
「これは、磐鹿六獦命一人の力で行ったことではない。天にいらっしゃる神が行われたものである。大和の国は、行う仕事によって名をつける国である。磐鹿六獦命は、我が皇子たちに、また生まれ継ぐ我が子々孫々までに、永遠に長く、天皇の食事に関わる職掌に清め慎んで従事し、仕え申しあげよ」
と、膳(かしわで)のウヂ名をお負わせになり、若湯坐連(わかゆえのむらじ)らの始祖の物部意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)が帯びていた大刀をお解かせになって、添えお与えになった。
また、「この仕事は、多くの伴が立ち並んで奉仕するものとせよ」と仰せになり、東西南北の諸国から人を割き移して、大伴部と名づけ、磐鹿六獦命へお与えになった。
また、諸氏の氏人や東方諸国の国造十七氏の童子を、それぞれ一人づつ献上させ、平坏と領布をお与えになって、彼らの統括を委ねられた。「山野海河は、ヒキガエルの渡る果てまで、船の通う果てまで、海の大小の魚、山のさまざまの獣など、お供えするすべてのものを統括し取り仕切って奉仕せよ」と任じられた。
「このように委ね任じることは、私ひとりだけの意思ではない。これは、天にいらっしゃる神のご命令であるぞ。我が王子・磐鹿六獦命よ、諸々の伴たちを督励し統率して慎み勤めて奉仕せよ」と仰せられ、祈誓されて委ね任じられたのである。
このとき、上総国の安房大神を御食つ神としてお祀りして、若湯坐連らの始祖・意富売布連の子の豊日連(とよひのむらじ)に火を鑚らせて、これを神聖な火として、斎い清めて御食にご奉仕し、また、大八島を象徴するものとして、八男・八女を定め、神嘗や大嘗などのご奉仕を始めたのである。
[安房大神を御食つ神とすると言ったのは、いま大膳職で祀っている神である。いま、斎火を鑚っている大伴造は、物部豊日連の後裔である。]
同じ年の十二月、天皇は東国から伊勢国の綺宮へお帰りになった。治世五十四年甲子の九月、伊勢から大和の纒向宮へお帰りになった。
五十七年丁卯の十一月、武蔵国の知々夫大伴部の祖である三宅連意由(みやけのむらじおゆ)が、木綿で蒲の葉に代えて角髪を巻いた。このとき以来、角髪を結うには木綿を使い、ヒカゲノカズラなどの葛を副えて用いることになったのである。
纒向朝の歳次癸亥の年から、はじめて貴い詔勅をうけたまわり、膳臣という氏姓を賜って、天皇の御食に斎み慎んで奉仕し、いまの朝廷の歳次壬戌の年に至るまで、合わせて天皇の御世なら三十九代、年なら六百六十九年を重ねてきたのである。[延暦十一年]

 

■ 『政事要略所引

高橋氏文にいう。
六雁命は、景行七十二年八月に病に冒され、同じ月に亡くなった。そのとき、天皇はそれをお聞きになって、大変悲しまれた。そして親王の方式に従って葬儀を行うことをお許しになった。宣命使として、藤河別命、武男心命らをお遣わしになった。
宣命にいう。「天皇のお言葉として仰せになるには、王子の六雁命が思いがけなく亡くなったとお聞きになられて、一日中悲しみ憂いておられる。天皇の治世の間は、六雁命も健在で、お互いに顔を合わせていられるだろうとお思いになっているうちに、別れが訪れてしまった。
そこで、今お考えになることは、十一月の新嘗の祭儀のことも、膳職が御膳に奉仕することも、みな六獦命が苦労して創始したところである。これによって、六雁命の御魂を膳職で斎き奉り、将来にわたって永く奉仕させることにしよう。六雁命の子孫たちを、未来にわたって膳職の長官、上総国の長官、淡国の長官と定めて、その地位に他の氏の者を任命されることはせずに、治めさせよう。もし、膳臣の一族が継がないときには、我が王子たちを任じ、他氏を加えて混乱させることはすまい。
若狭の国は、六雁命に永く子孫たちの永遠の所領とせよと定めてお与えになられたものである。このことは、後世にも決して違反すまい。この志をわきまえて、よく膳職の内も外も守護しまもり、歴代の天皇には宮の災いのことなどもなく、過ごしていただきたいとお考えになっている、と仰せになる天皇のお言葉を、六雁命の御魂も聞き届けよ」と仰せになった。

 


 

神道大系編纂会編『神道大系 古典編十三』に載る真壁俊信校訂原文(底本:『本朝月令』=『群書類従』、『政事要略』=国立公文書館所蔵九条道高蔵本の写)をもとに作成。
参考: 塙保己一編『群書類従 第六輯』、 黒板勝美・国史大系編修会編『新訂増補 国史大系 第二十八巻』 、 伴信友「高橋氏文考註」『神道大系 古典編十三』、 植松茂「氏文の成立と構造 -高橋氏文-」『講座日本の神話2 日本神話の成立と構造』

参考:伴信友『高橋氏文考註』(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

『高橋氏文』は、高橋朝臣(膳臣後裔)が、遠祖・磐鹿六雁命以来と称する、天皇の伴御のことに奉仕した由来について述べたものです。
八世紀に至り、高橋氏は内膳司に奉膳や典膳として任ぜられましたが、同じように内膳司に任官された安曇氏と対立。その際、自氏の優位を主張するために延暦八年に上申した家記と、延暦十一年に高橋氏の優位を認めた太政官符がこれにあたります。全文は現存せず、逸文がみられるのみです。
磐鹿六雁命の伝承については、景行紀五十三年条よりも詳細な内容を持っており、『先代旧事本紀』の饒速日命伝承と同様、日本書紀と諸氏の家記との関係をさぐる好材料になっています。
膳臣の配下だったらしい大伴造の祖として、物部意富売布(大咩布)連の子・豊日連が登場し、氏の伝承が皇室の伝承のみならず、他の氏の伝承とも有機的に結びついていたことがうかがえます。

 

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