【所縁の史跡】琴塚古墳(岐阜県)
■ 琴塚古墳 [地図]
岐阜県岐阜市琴塚3丁目にある、国指定史跡の前方後円墳・琴塚古墳です。
墳丘全長は115メートル。
後円部径68メートル、前方部幅72.5メートル。平地に営まれた堂々たる古墳です。
↓後円部の裾です。
五世紀後半ころの築造と見られています。
↓手前後円部、奥前方部です。
周堀が巡ります。幅は18メートルほど。外堤の状態も良好です。
もともとは、この外にさらに外堀が巡っていたそうです。現在は見た目ではよくわかりません。
造り出しもあります。径6メートルほどでしょうか。
驚かされたのは、宮内庁が陵墓として管理するわけでもないのに、前方部の正面が拝所のように整備されていたことです。
琴塚「御墓」と記された標柱。側面には「兆域 東西七十八間 南北八十八間」とありました。まさに皇族級の扱いです。
『先代旧事本紀』天孫本紀のみに見える、景行天皇の妃「物部五十琴姫命」の墓に擬する見方があるようです。五十琴姫命は、物部胆咋宿禰の娘で、天皇との間に五十功彦命という皇子をもうけたといいます。
「琴塚」の名称は、彼女の名にちなみますが、仮に実在の人物としても古墳の築造時期とは合わないようです。
近年、国造制の成立を6世紀代と見る説が有力ですが、かつてはさらに古い時代に遡らせるのが通説でした。
5世紀の美濃は、西部に大垣市の昼飯大塚古墳(全長137メートルは岐阜県最大)などが、東部に琴塚古墳のほか各務原市の坊の塚古墳(120メートル)などがあり、東西に大型古墳が並立していました。
江戸・明治の研究家たちは、国造本紀にある美濃の国造「三野前国造」と「三野後国造」を、これらの古墳に対応させたのでしょうか。
五十琴姫命が琴塚古墳の被葬者にあてられたのは、三野後国造が物部氏族だった関係からでしょう。