【関連資料】『懐風藻』物部氏族関連詩

 

正五位上近江守釆女朝臣比良夫。一首。[年五十。]

■ 五言。春日宴に侍す、応詔。

論道與唐儕。語德共虞隣。
冠周埋尸愛。駕殷解網仁。
淑景蒼天麗。嘉氣碧空陳。
葉綠園柳月。花紅山櫻春。
雲間頌皇澤。日下沐芳塵。
宜獻南山壽。千秋衛北辰。

道をへば唐とひとしく、徳を語れば虞とならぶ。
周がかばねを埋めし愛にで、殷が網を解きし仁をしのぎたまふ。
淑景蒼天しゅくけいさうてんに麗しく、嘉気碧空かきへきくうつららく。
葉は緑なり園柳ゑんりうの月、花はくれなゐなり山桜の春。
雲間皇澤うんかんくわうたくめ、日下芳塵じつかはうぢんに沐す。
宜しく南山のよごとを獻りて、千秋とこしへの北辰を衛るべし。

 

従五位下刑部少輔兼大学博士越智直広江。一絶。

■ 五言。懷を述ぶ。

文藻我所難。莊老我所好。
行年已過半。今更為何勞。

文藻ぶんさうは我がかたみする所、荘老は我が好む所。
行年已に半ばを過ぎぬ、今更に何の為にかいたつむ。

 

外従五位下大学頭箭集宿祢虫麻呂。二首。

■ 五言。讌(うたげ)に侍す。一首。

聖豫開芳序。皇恩施品生。
流霞酒處泛。薰吹曲中輕。
紫殿連珠絡。丹墀蓂草榮。
即此乘槎客。倶欣天上情。

聖豫芳序せいよほうじよに開き、皇恩品生くわうおんひんせいに施したまふ。
流霞酒處りうかしゆしよかび、薰吹曲中くんすゐきよくちゆうに軽し。
紫殿連珠しでんれんしゆまとひ、丹墀蓂草たんちめいさう栄ゆ。
即ち此れいかだに乗れる客、倶によろこぶ天上のこころ

 

■ 五言。左僕射長王が宅にして宴す。一首。

靈臺披廣宴。寶斝歡琴書。
趙發青鸞舞。夏踊赤鱗魚。
柳條未吐綠。梅蕊已芳裾。
即是忘歸地。芳辰賞叵舒。

霊台広宴れいだいくわうえんひらき、宝斝琴書はうかきんしよを歓ぶ。
てうおこ青鸞せいらんの舞、は踊らす赤鱗せきりんの魚。
柳條りうでう未だ綠を吐かね、梅蕊ばいずゐ已に裾にかぐはし。
即ち是れかへりを忘る地、芳辰のはやしぶることかたし。

 

従三位中納言兼中務卿石上朝臣乙麻呂。四首。

石上中納言いそのかみのちゆうなごんは、左大臣の第三子なり。地望清華ちぼうせいか人才穎秀じんさいえいしう雍容間雅ようようかんが、甚だ風儀に善し。志を典噴てんふんつとめりといえども、亦すこぶ篇翰へんかんを愛む。かつ朝譴てうけん有て、南荒に飄寓へうぐうす。淵に臨み澤にによびて、心を文藻にうつす。遂に銜悲藻かんびさう両卷ふたまき有り、今世に傳はる。天平年中に、詔して入唐使をえらばしめたまふ。元来もとより此の挙其の人を得ること難し。時に朝堂に選ぶに、公が右に出づるもの無し。遂に大使にさる。衆僉ひとみなは悅びしたがふ。時にさゆること、皆此の類なり。然すがに遂に往かずありき。其の後従三位中納言を授けらゆ。台位に登りてより、風采日に新し。芳猷はういう遠しと雖も、遺列蕩然ゐれつたうぜんなり。時に年若干。

[訳]石上(乙麻呂)中納言は、左大臣(石上麻呂)の第三子である。門地・名望にすぐれた出身で、才能にすぐれ、ゆったりとした容貌であり、振る舞いは静かで優雅であった。心を書物にかたむけたものの、また詩文を作ることも好んだ。
かつて、朝廷からのおとがめがあって、南の果て(土佐)をさすらった。淵や沢を歩いては詩を吟じ、心のなかで文を書いていた。ついに『銜悲藻』二巻を著した。これは現代にも伝わっている。天平年間に、詔により遣唐使が選ばれた。もとより、この人選は難しい。しかし、朝廷で人を選ぶのに、乙麻呂の右に出る者がいない。そのため、大使に任じられた。人びとはみな、この決定によろこんで従った。当時、推賞されることは、みなこのような次第であった。それでいて、唐へ派遣されることはなかった。その後、従三位中納言を授けられた。宰相の地位に昇ってからは、風貌はいよいよ冴えた。
高尚な品格は遠大ではかりしれなかったけれども、死後に遺った功績は広大であった。ときに歳は若干であった。

 

■ 五言。南荒に飄寓し、京に在す故友に贈る。一首。

遼夐遊千里。徘徊惜寸心。
風前蘭送馥。月後桂舒陰。
斜雁凌雲響。輕蝉抱樹吟。
相思知別慟。徒弄白雲琴。

遼夐れうけい千里に遊び、徘徊寸心を惜しむ。
風前蘭馥らんかを送り、月後桂陰をぶ。
斜雁しやがん雲を凌ぎてとよもし、軽蝉けいせん樹を抱きてく。
相思知りぬわかれかなしびを、いたづらに弄ぶ白雲の琴。

 

■ 五言。掾の公が遷任して京に入らむとするに贈る。一首。

余含南裔怨。君詠北征詩。
詩興哀秋節。傷哉槐樹衰。
彈琴顧落景。歩月誰逢稀。
相望天垂別。分後莫長違。

余は含む南裔の怨、君は詠ふ北征の詩。
詩興秋節を哀ぶ、いたきかも槐樹くわいじゆの衰ふることは。
琴を弾きて落景を顧み、月に歩みて誰にか逢ふことの稀らなる。
相望みて天垂に別る、分れて後にとこしへに違ふことなかれ。

 

■ 五言。旧識に贈る。一首。

萬里風塵別。三冬蘭蕙衰。
霜花逾入鬢。寒氣益顰眉。
夕鴛迷霧裏。曉雁苦雲垂。
開衿期不識。呑恨獨傷悲。

万里ばんり風塵ふうぢんき、三冬蘭蕙らんけい衰ふ。
霜花逾鬢そうくわいよよかみに入り、寒気益眉ますますまゆひそめしむ。
夕鴛せきゑん霧の裏に迷ひ、曉雁げうがん雲のきわみに苦しぶ。
衿を開かむとき識らえず、恨を呑みて独り傷み悲しぶ。

 

■ 五言。秋夜閨情。一首。

他郷頻夜夢。談與麗人同。
寢裏歡如實。驚前恨泣空。
空思向桂影。獨坐聽松風。
山川嶮易路。展轉憶閨中。

他郷しきに夜夢み、談らふこと麗人と同じ。
寝裏歓ぶることまことの如く、驚前恨みて空に泣く。
空しく思ひて桂影に向かひ、独り坐て松風を聴く。
山川嶮易けんいの路、展転てんてんねやの中を憶ふ。

 


 

現存する漢詩集では最古のものとして知られる懐風藻。成立は天平勝宝三年十一月で、その名称は先人の詩を散失から守るために集め、その遺風を廃れさせない目的から「懐風」とされたといいます。編者は不明ですが、石上宅嗣や淡海三船、葛井広成などをあてる説があります。
石上乙麻呂には伝記が付され、彼が左大臣麻呂の第三子であること、「銜悲藻」全二巻という詩集を編んでいたこと、天平年間に遣唐大使に選ばれたものの結局入唐しなかったことなど、続日本紀には見えない記事を載せます。

 

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