【所縁の史跡】出雲のフツヌシ神(島根県)

稲佐浜の落陽

是の後に、高皇産霊尊、更に諸神を会へて、当に葦原中国に遣すべき者を選ぶ。僉曰さく、「磐裂根裂神の子磐筒男・磐筒女が生める子、経津主神、是佳けむ」とまうす。時に、天石窟に住む神、稜威雄走神の子甕速日神、甕速日神の子熯速日神、熯速日神の子武甕槌神有す。此の神進みて曰さく、「豈唯経津主神のみ大夫にして、吾は大夫にあらずや」とまうす。其の辞気慷慨し。故、以て即ち、経津主神に配へて、葦原中国を平けしむ。
二の神、是に、出雲国の五十田狭の小汀に降到りて、則ち十握剣を抜きて、倒に地に植てて、其の鋒端に踞て、大己貴神に問ひて曰はく、「高皇産霊尊、皇孫を降しまつりて、此の地に君臨はむとす。故、先づ我二の神を遣して、駈除ひ平定めしむ。汝が意何如。避りまつらむや不や」―――

(日本書紀 巻第二)


美談神社 [地図]

美談郷  郡家の正北九里二百三十歩なり。天の下造らしし大神の御子、和加布都努志命、天地の初めて判れし後、天の御領田の長 仕へ奉りましき。即ち、彼の神、郷の中に坐す。故、三太三といふ。
(出雲国風土記 出雲郡)

島根県出雲市美談町に鎮座する、美談神社です。
国道431号線沿いの丘の上、一畑電鉄美談駅からは南西に300mほどに位置します。

『延喜式』神名帳の出雲国出雲郡に、「美談神社」が見えます。

『出雲国風土記』が出雲郡段の神社名列記の中に、神祇官内社として「弥太弥社」として記すのも、式内美談神社と同一のものです。

祭神は、経津主命、武甕槌命、息長足姫命、比売遅神です。
比売遅神は、式内「同社比売遅神社」に祀られる神。息長足姫は、当社が八幡宮として祭祀されていたころの名残でもあります。

本社左側には、やはり式内社の印波神社(写真手前)と県神社(奥)があります。
県神社は、風土記には阿我多社として見えています。

そして、県神社に合祀されているのが、「同社和加布都努志神社」です。

県神社の存在は、大和王権の影響力が当地に及び、付近に県(アガタ)が置かれたことを示すと考えられます。
風土記出雲郡美談郷条は、ミタミの地名を「御田(天の御領田)」を「見る(監督する)」ことに由来するとしますが、この御田は王権の物を指すのでしょう。あるいはミタミは御民で、アガタの田の耕作民のことなのかもしれません。
6世紀中葉、出雲国西部に物部氏をはじめとするヤマト王権の勢力が扶植されます。その後、風土記編纂期までの間に、物部氏の奉ずる経津主神は、その分身ワカフツヌシ命が、「天の下造らしし大神の御子」として位置づけられ、在地の信仰の中に溶け込んでいきました。

他にも、境内社として、弥陀弥神社が二社あります(写真左、小早川神社とともに合殿)。風土記が官外社として載せる十一の弥陀弥社を祀るようです。

神社裏手の丘陵上に位置するのが、美談神社古墳群です。1号墳は箱式石棺を埋葬施設に持ち、2号墳は石棺式石室を持つ方墳だったといいます。


上島古墳 [地図]

出雲市国富町の上島(あげしま)古墳です。美談神社から、北東へ1.3kmほどのところに位置します。

成人男性の骨とともに、金銀で飾った馬具類など豊富な副葬品が出土し、畿内の影響を強く受けた出雲最古の家形石棺を持つことなどから、ヤマト王権と密接な関係を持った首長の墓と考えられています。

 

直径15mほどの円墳と推定されています。
家形石棺は石室を持たず、直接地中に埋納されていました。
石棺とは別に、竪穴式石室を持ちますが、これは遺物を納めるためのものと見られています。

築造時期は、6世紀の中頃のようです。

 


宇美神社 [地図]

島根県出雲市平田町に鎮座する、宇美神社です。

『延喜式』神名帳の出雲国楯縫郡に、「宇美神社」が見えます。また、『出雲国風土記』も楯縫郡に「宇美社」を載せます。

祭神は、布都御魂神。ほか、大歳神など七柱を配祀します。

社伝には、祭神は経津主神と同一神であり、出雲国に降るとき、海上から楯縫の地へ上陸したとされています。社名の「ウミ」もこれにちなんで生まれたといいます。
この海とは、古代においては現在より大幅に西へ入り込んでいた、宍道湖のことを指すものでしょうか。

『出雲国風土記』の楯縫郡の段は、末尾に編集責任者として三人の人物を記します。
そのうちの一人が、「郡司主帳無位 物部臣」です。
物部臣は、系譜上は出雲臣の同族に連なりながら、当地の物部の管掌を行っていた氏と見られます。

ウミに縁故の神社らしく、常夜燈にも亀が使われていました。

境内の祖神社です。
祭神は句々廼馳(くくのち)神。この神を祭神としている社は珍しいので驚きました。


「天の石楯」 [地図]

楯縫郷  郡家の東北のかた三十二里一百八十歩なり。布都努志命の天の石楯を縫ひ置き給ひき。故、楯縫といふ。

(出雲国風土記 意宇郡)

島根県安来市清井町に鎮座する、嵩神社です。
清水寺東方の岳山の山頂近くに位置します。

私は北の門生町側から車で進めるところまで進み、その後は徒歩で清水峠あたりから登りました。
不便な場所なので、はじめて参拝される方はGPS機器を携帯したり案内してくれる人に同行してもらうなど、山中で迷わない工夫が必要です。

祭神は布都努志命。

意宇郡楯縫郷は、現在の安来市清瀬・清井・宇賀荘・九重・清水・早田の一帯にあたるようです。

島根県古代文化センター『出雲国風土記註論』は、『宇賀荘村誌』から、「嵩神社ハ布都努志命ヲ祠ル旧社ニシテ其創立年代詳ナラス」「本社ノ傍二高サ八尺周二丈ノ巨岩アリトアルヲ以テ見レハ或ハ此巨岩カ天ノ岩楯ニアラサルカ」と引いて、祭神からみて、その巨岩が本来は布都努志命の天石楯として意識されたのであろうとしています。

これがその巨岩です。
社殿の右裏手、斜面の上にあります。

もとはもっと大きかった岩が割れて、今の形になったのではないかという印象を受けます。

風土記の意宇郡段は、楯縫郷の南西に位置する山国郷についても、地名起源説話に布都努志命を登場させます。

「布都努志命の国廻りましし時、此処に来まして詔りたまひしく、『是の土は、止まなくに見まく欲し』と詔りたまひき。故、山国といふ。」

これは、大脇由紀子氏が「フツノミタマ考」でいわれるとおり、「国土平定の際、〈物部〉の軍が山から未平定の土地を窺っているような印象」を受けます。


因佐神社 [地図]

島根県出雲市大社町杵築北に鎮座する、因佐神社。
稲佐浜の海岸から歩いてすぐのところにある、出雲大社の境外摂社です。

『延喜式』神名帳の出雲国出雲郡に「因佐神社」が見えます。

祭神は、建御雷命。
記紀の出雲国譲神話において、高天原の使神として活躍する神です。

出雲国造神賀詞には登場せず、現地出雲との関係が薄そうな点などから、元来フツの神に属する神話だったものが、この神を氏神として奉ずる藤原氏によって、武甕槌命と経津主命の二神に分離させられたとの見方もあります。

稲佐浜から因佐神社へ向かう途中にある、屏風岩です。
写真だと大きな岩に見えますが、実は横から見ると、滅茶苦茶薄っぺらい岩です。強い風でも吹いたら、今にも倒れそうな感じです。

この岩陰で、大国主神と武甕槌神とが、国譲りの話し合いをしたという伝説を持つようです。

 

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