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【所縁の史跡】物部神社(新潟県佐渡市)

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  ■ 物部神社   [地図] 新潟県佐渡市小倉に鎮座する、物部神社です。 県道181号線を長谷寺や小倉ダムを通り過ぎ、さらに南へ向かうと、下写真のような案内が出ています。 『延喜式』神名帳の佐渡国雑太郡に、「物部神社」が見えます。 また、『続日本紀』延暦十年九月六日には、佐渡国の物部天神に従五位下の神階に叙されたことが見えます。 新潟県下の神社で神階を授かったのは、記録に残るものではこれが最も古い例とされています。 祭神は宇麻志麻治命です。 穂積朝臣老が当地に謫居していた間、物部氏の祖神を小祠を建立して祀ったことに始まるとされています。 鎮座地名「小倉」は、延宝九(1681)年の所謂「小倉事件」で佐渡へ配流になった、小倉大納言実起に縁故のものと考えられているようです。社伝に、実起も、この神社を崇敬したといいます。 境内には、下写真のような「万葉歌人 穂積朝臣老邸跡」の碑もありました。平成五年の建立のようです。 「天地を嘆き乞ひ祈み幸くあらば また還り見む志賀の唐崎」 万葉集に老が佐渡配流中に詠んだかとされる歌が刻まれています。 穂積朝臣老について、『続日本紀』の養老六(722)年一月に乗輿を指斥(天皇を批判)した罪で配流になり、天平十二(740)年六月に恩赦で京に戻ったことが見えます。 佐渡での流人生活は、十八年間にも及んだことになります。 老がなぜそのような罪を得たのかについては、政争がらみとする説や、『日本書紀』での穂積氏関連記事に不満があったためとする説など、諸説あります。 極位は正五位上。大蔵大輔などに任じられています。 境内社の藤源神社です。 祭神は、藤沼源左衛門時房。宝暦三(1753)年~宝暦九年の佐渡代官です。 飢饉の救済に力を尽くした人物として祀られています。 『延喜式』所載の物部神社は、部民設置による物部氏の勢力の広がりを物語る史料として用いられることが多いです。 佐渡の物部神社も、『新潟県史 通史編』などがこの見解に立ちます。 「物部神社」の存在は、6世紀代には、当地に物部が置かれたことを示すようです。 穂積朝臣老の由緒は、佐渡所縁の物部氏族出身者として付会されたものでしょうか。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 物

【所縁の史跡】嶋物部神社(京都府)

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  ■ 荒井神社   [地図] 京都府南丹市八木町美里字荒井に鎮座する、荒井神社です。 JR吉富駅から北東へ約1km、園部川と桂川の合流点にほど近いところに位置します。 近くには、メグミルクの大きな工場もありました。 石製の鳥居には、「延享四(丁卯)年」と彫られていました。江戸時代中期に作られたもののようです。 『三代実録』元慶六年十月九日に従五位下へ叙せられたとある、丹波国荒井神にあてられます。 また、『延喜式』神名帳の丹波国船井郡に見える、「嶋物部神社」の論社ともされます。 嶋物部神社の「嶋」は、『和名抄』の丹波国船井郡十一郷のひとつ、志麻郷として見える地名に由来すると考えられています。 祭神は、荒魂神。 物部神社にあてられる関係から、物部氏の祖、宇摩志麻治命のことと解釈されているようです。 現存の本殿は、江戸時代のものですが、室町時代の形式・木材を一部受け継いでいるとも。 京都府の文化財に指定されています。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 嶋物部神社

【所縁の史跡】物部神社(京都府)

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  ■ 物部神社   [地図] 京都府与謝郡与謝野町石川に鎮座する、物部神社です。 『延喜式』神名帳の丹後国与謝郡に、「物部神社」が見えます。 この一帯は、『和名抄』にある丹後国与謝郡物部郷の比定地でもあります。 鳥居にかかる「物部社」の額は、正二位清原宣光の書と記されています。 南北に伸びる、あまり大きくない谷が参道になっています。 谷の突き当たりに二等辺三角形の山影の山があり、山を背負うような位置に神社があります。 祭神は、物部氏の祖の宇摩志麻遅命。 一説には、武内宿祢の子で蘇我氏の祖の蘇我石川宿祢ともいいます。鎮座地名との関係で付会されたものでしょう。 覆屋のなかの本殿は江戸中期に造営と伝える、向拜付きの権現造。 欅(けやき) 材が用いられているそうです。 拝殿を置かない形なので、間近に拝むことができます。 ご神体は鏡だそうです。 ほかに、左大臣・右大臣と呼ばれた木彫り坐像が神像としてあったといいますが、現存しません。 本殿の正面の扁額。 「物部大明神」とあります。 天明五(1785)年、日野資枝の筆によるもので、もとは鳥居にあがっていたとか。 天璽瑞宝トップ   >  所縁の史跡   > 物部神社

【所縁の史跡】物部神社(島根県)

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  ■ 物部神社   [地図]   島根県大田市川合町川合に鎮座する、物部神社です。 石見国一の宮として知られています。 『延喜式』神名帳の石見国安濃郡に、「物部神社」があります。 全国に十七ある式内物部神社のひとつということになります。 主祭神は物部氏の祖、宇摩志麻遅命。 相殿神として、左座に天照大御神と天御中主大神、右座に饒速日命と布都霊神を祀ります。 祭神は、南東へ3kmほどのところにある鶴降山へ白い鶴に乗って降臨したと伝え、近隣の賊を平定した後、当地を住居としたといいます。 このため、神社の神紋も、「ひおい鶴」という太陽を負った鶴が用いられています。 県指定の文化財でもある本殿は、高さ16.3mあり、島根県下では出雲大社に次ぐ規模です。 優美な屋根のカーブが、背後の木々の緑に映えます。 本殿の形式は、深い庇を支える隅木が入った春日造。高床・千木・勝男木・大棟など、出雲の神社建築との共通点が指摘されています。 神社の背後が八百山で、その南の尾根上に、祭神宇摩志麻遅命の神墓とされるものがあります。 5世紀後半~6世紀ころの円墳とも推定され、八百山古墳群を構成する古墳のひとつだった可能性があるようです。 石見国の物部神について、貞観十一年三月二日に従五位上から正五位下へ、貞観十七年十月十日に正五位上へ、元慶三年九月四日に従四位下へ神階を昇叙したことが、『三代実録』に見えます。 写真は境内末社の東五社。神代七代社ともいい、国常立尊から伊弉諾尊・伊弉冉尊までの七代十一柱を祀ります。 末社の須賀見神社(六見宿祢命 )と乙見神社(三見宿祢命)です。ひとつの社殿に祀られています。 『旧事本紀』天孫本紀によると、六見宿祢命と三見宿祢命、ともに宇摩志麻遅命の三世孫で、出雲醜大臣命の子とあります。 摂社の後神社です。 宇摩志麻遅命の妃神、師長姫命を祀ります。 師長姫も天孫本紀に見え、活目邑の五十呉桃の娘で、二児(味饒田命と彦湯支命)を生んだとされます。 社伝には、天孫本紀に長田川合君らの祖と見える、物部竹古(竹子)連が景行朝に石見国造として当地へ下向し、物部神社の司祭者となったといいます。 当地の地名「川合」が長田川合氏に縁故ありと理解されたものでしょうか。