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【所縁の史跡】氷川神社(埼玉県)

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  ■ 氷川神社  [地図] 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町に鎮座する、武蔵国一の宮、氷川神社です。 『延喜式』神名帳の武蔵国足立郡に「氷川神社」がみえます。名神大社として、月次新嘗の官幣にあずかっています。 私が参拝したのは12月31日。正月に備えて賑わっていました。 孝昭天皇の時代の創祀で、成務朝には武蔵国造の祖の兄多毛比命の崇敬を受けたと伝えられます。 恵美押勝の乱で活躍した丈部直不破麻呂は、武蔵国造に任じられ、姓を武蔵宿禰と改めました。 彼の一族が奉斎してきた神社と思われます。 祭神は、須佐之男命、稲田姫命、大己貴命です。 氷川の名は、出雲の斐伊川に由来するといわれます。 伴信友『神名帳考証』は、 「[姓氏]大部首胆杵磯丹杵穂命後也又曰氷連饒速日命後也 [読耕集]大宮駅此地有氷川神足立郡氷川社即是到今祠官物部姓也」 という文を氷川神社の項目にかかげています。 これは、丈部氏を大部氏と見て、『姓氏録』未定雑姓の胆杵磯丹杵穂命後裔の大部首との関係を疑ったのでしょう。胆杵磯丹杵穂命は、『旧事本紀』によれば饒速日命の別名とされます。 氷連は『姓氏録』左京神別上と河内国神別にみえ、いずれも饒速日命の後裔を称します。社号との類似を考えたものでしょう。 また、氷川神社の祠官が物部姓だったとしています。 下写真は、摂社の門客人神社(左。手摩乳命、足摩乳命)と、御嶽神社(右。大己貴命、少彦名命)。 武蔵国の氷川神について、貞観元年正月二十七日に従五位下から従五位上へ昇ったのをはじめとして、貞観五年六月八日条で正五位下、貞観七年十二月二十一日条で従四位下、貞観十一年十一月十九日条で正四位下、元慶二年十二月二日条で正四位上の神階に叙せられたことが、『三代実録』にみえます。 天津神社。 少彦名命を祀ります。 六社。 末社の山祇神社、愛宕神社、雷神社、住吉神社、神明神社、そして布都御魂神を祭神とする石上神社が祀られています。 ■ 氷川女体神社  [地図] さいたま市緑区宮本に鎮座する、氷川女体神社。 崇神朝の創祀と伝えられます。 祭神は奇稲田姫命で、大己貴命と三穂津姫命が合祀されています。 下写真は向かいの公園にある、「磐船祭」祭祀遺跡の入り口。 明治期に廃絶した祭祀の遺跡

【所縁の史跡】物部天神社(埼玉県)

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  ■ 北野天神社  [地図] 埼玉県所沢市小手指元町3丁目に鎮座する、北野天神社です。 『延喜式』神名帳にある、武蔵国入間郡「物部天神社」「国渭地祇神社」を継承するといわれてます。 日本武尊の創祀と伝えられます。 その後、武蔵国司として赴任した菅原修正(菅原道真の五世の孫)が、長徳元(995)年に京都の北野天満宮から分霊を勧請して合祀したために、現在の総称「北野天神」になったそうです。 祭神は、物部天神社が饒速日命、国渭地祇神社が八千矛命、天満天神社が菅原道真公です。 実際のところは、武蔵国造家の一族らしい、物部直氏が奉斎していた神の祭祀に始まるとみられます。出雲臣氏の氏族を称しています。 続日本紀の神護景雲二(768)年七月には、武蔵国入間郡の人、正六位上・物部広成らが、入間宿禰の姓を賜ったとあります。 物部広成の名は、天平宝字六年九月にもみえます。当時は授刀舎人で、愛発の関に入ろうとする藤原仲麻呂(恵美押勝)の軍を撃退したといいます。 ↓尊桜。 日本武尊のお手植えの桜と伝えられます。何度か代替わりしているそうです。 境内の摂社末社も多くありました。 諸神宮は延喜式内総社3132神を祀ります。 文子神社は祭神が多治比文子。養蚕、糸繰、裁縫の神とされます。 天満天神(菅原道真)との関係で祀られているのでしょう。 石宮神社には、水天宮も合祀されているようでした。 小手指神社は、日清戦争以後の地元戦没者の霊を祀ったものです。 ほかに、稲荷神社、八雲社があります。 ■ 白旗塚  [地図] 埼玉県所沢市北野2丁目にある、白旗塚です。古墳の可能性が高いことが指摘されています。未調査のため墳形などの詳細は不明です。名称は小手指ヶ原の戦いで新田義貞が源氏の白旗を立てたという伝説によるようです。 北野天神社からは直線で800m〜900mほどの場所にあります。 塚の上にあるのは浅間社の祠で、富士(浅間)信仰の場ともなっていたとか。 天璽瑞宝トップ > 所縁の史跡 > 物部天神社