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【所縁の史跡】三嶋大社(静岡県)

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  ■ 三嶋大社  [地図] 静岡県三島市大宮町に鎮座する三嶋大社です。街中にあるためか、駐車場は有料になっていました。 『延喜式』神名帳の伊豆国賀茂郡に、名神大社「伊豆三嶋神社」が見えます。 現在の鎮座地は旧田方郡に属します。 もと伊豆南部の白浜で祀られていたものを、国府に近い当地へ遷座したといわれます。 祭神は、大山祇命と積羽八重事代主命。 三嶋は御島であり、伊豆諸島とのかかわりが強いようです。伊予の大三島に鎮座する大山祇神社同様、航海神的要素を考える説もあります。 『日本書紀』天武十三年冬十月壬辰条は、伊豆嶋の西北二面が隆起し一嶋を為し、そのときの鼓のような音は神がこの嶋を造った音だ、とします。 この神を、三嶋神と解釈されることも多いようです。 『日本後紀』天長九年五月には伊古奈比咩神とともに名神に預ったことが見え、『続日本後紀』承和七年九月には新生の島(上津島)を伊豆国府が上申し、三嶋大社の本后・阿波神、および御子・物忌奈乃命をこの島で祭祀したことが見えます。 ↓境内摂社の見目神社です。 三嶋大神の妃神六柱を祀ります。 ↓境内摂社の若宮社です。 三嶋大神の子神・物忌奈乃命を祀ります。他には誉田別命と神功皇后も祀られており、かつては若宮八幡宮とも呼ばれたそうです。 ↓境内末社の東五社です。 小楠社、第二社など。 ↓境内末社の西五社です。 大楠社、天神社など。 境内の金木犀です。 樹齢は1200年を越えるともいわれ、昭和9年には国の天然記念物に指定されています。 末社の厳島神社です。 参道左手の神池のなかにあります。北条政子が勧請したとの社伝を持ちます。 三嶋大社の神池について、類聚国史は、天長四年に池の水が枯渇した数ヶ月後、天下は大旱し、神官の訴えにより朝廷が三嶋神殿において澪祭(雨乞い)を行わせたところ、大雨が降ったことを記します。 ↓鳥居から境内に入って間もなくのところにある「たたり石」。 かつて旧東海道の中央にあり、行きかう人々の流れを整理する役割を果たしていたとも伝えられます。 取り除こうとすると祟りがあったという話もあるようですが、結局大正三年に現在地へ移されたそうです。 ↓矢田部盛治像。澤田晴広の作です。 盛治は、嘉永七年の東海大地震からの復興など、当社興隆のため

【所縁の史跡】 剣刀石床別命神社と向山古墳群(静岡県)

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  ■ 剣刀石床別命神社  [地図] 静岡県三島市谷田に鎮座する、剣刀石床別命(つるぎたちいわとこわけのみこと)神社です。 『延喜式』神名帳の伊豆国田方郡に、「剣刀石床別命神社」があります。 祭神は、剣刀石床別命と、日本武尊。 『伊豆国神階帳』所載の「従四位上 なつめの明神」に当社をあてる説もあるようです。 現状では、小さな独立した丘の上にあるように見えますが、本来谷田台地の突端に位置しました。 宅地造成などで、地形はかなり変貌したそうです。 ↓境内社。本社の右手に並んでいます。 左手にも境内社。内部に複数の祠が並びます。 脇に下の写真のようなものも置いてあったので、他所から移転してきた山神社が含まれているのかもしれません。 社名「剣刀石床別命」について、『式内社調査報告』は、「当地の人々が嶽座(竹倉)山麓の剣なす石床から流出する渓水を以つて」農業などの生活用水としていたことから生まれたと推定し、 『三島市誌』は、東北約1.5kmほどのところにあった一ノ瀧・二ノ瀧・三ノ瀧の信仰に祭祀の起源を求めています。 なお、同じ田方郡に剣刀乎夜爾命神社がありますが、こちらは「剣のように切り立った」様子を表すとはほとんど解釈されていないようです。 当社の場合も、岩から流れ出る水の信仰については、御嶽権現と通称された時期の解釈の可能性があり、刀剣や金属鉱床・鍛冶などとの関係も考える必要があろうかと思います。 ■ 向山古墳群  [地図] 剣刀石床別命神社から南東へ約700m。同じく 三島市谷田に所在する、向山古墳群です。 上の写真は、奥から14号墳、13号墳、墳丘がほとんど残っていない15号墳、12号墳です。 私が訪れたときはちょうど調査後で土がむき出しでしたが、現在ではきれいに整備され古墳公園化しているようです。 剣刀石床別命神社の境内案内板に、「社地の後方台地には古墳群の遺跡があり、古代の聖地を思わせる」とありますが、この古墳群が代表的なものです。 下写真は11号墳。円墳ですが、道路にかなり削られてしまっています。 消滅したものを含めて、15基が知られています。 向山小学校が建っている位置にあった2基の円墳からは、鉄剣・鉄刀・鉄鏃が出土しました。 伊豆地方の古墳から鉄剣が出土したのは、これがは