【先代旧事本紀】巻第四・地祇本紀 - 現代語訳
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素戔烏尊の行いはいいようがないほどで、八十万の諸神は、千座の置戸の罰を科して追放した。
素戔烏尊は、その子である
「この地には、私は居たくないのだ」
ついに土で船を造り、それに乗って東へ渡り、出雲国の
素戔烏尊が出雲国の簸川の川上の、鳥髪というところにおいでになったとき、その川上から箸が流れ下ってきた。素戔烏尊は、人がその川上に住んでいるとお思いになって、たずね捜して上って行くと、川上から泣き声が聞こえてきた。そこで、声の主を探して行き上ると、一人の翁と媼が真中にひとりの少女をおいて泣いていた。
素戔烏尊が尋ねて仰せられた。
「お前たちは誰だ。どうしてこのように泣いているのか」
翁は答えて申しあげた。
「私は国つ神です。名は
素戔烏尊はお尋ねになった。
「その大蛇はどんな形をしているのか」
答えて申しあげた。
「大蛇は、一つの胴体に八つの頭と尾がそれぞれ八つに分かれてあります。眼は
素戔烏尊はその老夫に仰せられた。
「そのお前の娘を、私に献じぬか」
答えて申しあげた。
「恐れ入ります。しかしお名前を存じません」
素戔烏尊が仰せになった。
「私は天照太神の弟である。今、天から降ってきたところだ」
そこで答えて申しあげた。
「仰せのままにいたします。どうかまず、あの大蛇を殺して、それから召されたらよいでしょう」
素戔烏尊は、たちまちに奇稲田姫を湯津爪櫛へと変えて、
そして、脚摩乳と手摩乳によく醸した酒を八つの甕に用意させ、また垣を作り廻らせて、その垣に八つの門を作り、八つの桟敷を作った。それぞれに槽ひとつを置き、酒を盛らせた。
そのように、ご命令のままに準備をして待ち受けているとき、八岐の大蛇が脚摩乳の言うとおり八つの丘、八つの谷の間を這ってやって来た。
素戔烏尊は、大蛇に仰せられた。
「あなたは恐れ多い神です。おもてなし申しあげよう」
そこで八つの甕の酒を、八つの頭ごとに得て、大蛇は酔って眠り伏してしまった。
素戔烏尊は、腰に帯びていた
簸川の水は赤い血となって流れた。
その大蛇の尾を斬ったとき、剣の刃が少し欠けた。そこで、その尾を割いてご覧になると、中に一つの剣があった。名を
素戔烏尊は仰せられた。
「これは不思議な剣だ。私はどうして私物にできようか」
そうして、五世孫の
のちに、
また、その蛇を斬った剣は今、吉備の神部のところにある。出雲の簸川の川上にやって来て、大蛇を斬った剣はこれである。
または、蛇を斬った剣の名は、蛇の
素戔烏尊は先に行かれ、結婚によい所をお探しになり、ついに出雲の
「私の心はすがすがしい」
そこで宮を建てられた。
このとき、その地から盛んに雲が立ちのぼったので、御歌を作られた。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣は」
(盛んに湧きおこる雲が、八重の垣をめぐらす。新妻をこもらせるために、八重の垣をめぐらすことよ、あの八重垣は)
そうして結婚して妃とされた。生まれた子が
大己貴神のまたの名を
素戔烏尊が仰せになった。
「わが子の宮の首長は、脚摩乳と手摩乳である」
そして、名をこの二神に与えた。
出雲国にいらっしゃる神がこれである。
また、
素戔烏尊は仰せられた。
「韓国の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」
そこで、髭を抜いて放つと松の木になった。
また、胸毛を抜いて放つと檜になった。
また、眉毛を抜いて放つと樟の木になった。
また、尻の毛を抜いて放つと槙の木になった。
また、その用途を決められていわれた。
「杉と樟、この二つの木は舟をつくるのがよい。また、檜は宮殿を造る木にするのがよい。また、槙は現世の人民の寝棺を作るのによい。そのための沢山の木の種子を皆蒔こう」
素戔烏尊は、
子の五十猛神は天降られるときに、沢山の樹の種や、子供たちが食べるための種を、韓国には植えないで、すべて持ち帰り、筑紫からはじめて大八州の国中に蒔き増やして、青山にならないところはなかった。
このため五十猛命は有功の神とされる。紀伊国にいらっしゃる大神がこれである。
ある説には、素戔烏尊の子の名は五十猛命という。妹は
大己貴神は国を平らげ、出雲国の
このとき、波頭の上から天の
大己貴命が拾って手のひらにのせ、これをもてあそんでいると、跳ねて頬に噛みついた。
そこでそのかたちをあやしんで、名を尋ねたが、答えなかった。また、お伴に従っている神々に尋ねても、みな「知りません」といった。
そのとき、
「これは
すぐさま久延彦を呼んでお尋ねになると、答えていった。
「これは、
そこで、その天神にこのことを申しあげると、神皇産霊尊はこれをお聞きになっていわれた。
「私が生んだ子は合わせて千五百ほどある。そのなかの一人の子で、もっとも悪く教えに従わない子がいた。指の間からもれ落ちたのは、きっと彼だろう。だから、あなた
これが少彦名命である。
その少彦名神であることを顕し申しあげた、いわゆる久延彦は、今では山田の
大己貴神と少彦名神とは、力を合わせ、心を一つにして天下を造られた。
また、現世の人民と家畜のためには、病気治療の方法を定めた。また、鳥獣や昆虫の災いを除くために、まじないの法を定めた。
このため人民は、今に至るまでその恵みを受けている。
大己貴神が少彦名神に語って仰せられた。
「われらが造った国は、よく出来たといえるだろうか」
少彦名命は答えていった。
「あるいはよく出来たところもあるけれど、あるいは不出来のところもある」
この会話は、思うに深いわけがあるようである。
その後、少彦名命は熊野の御崎に行かれて、ついに常世の国へ去られた。また、淡嶋に行って粟茎によじのぼり、弾かれて常世の郷に行かれたともいう。
大己貴命は、はじめは少彦名命と二柱で葦原の中国にいらっしゃった。国は
少彦名命が常世に行かれて後、国の中でまだ出来あがらないところを、大己貴命は一人でよく巡り造られた。
ついに出雲国の五十狭々の小浜に至って、
「そもそも葦原の中国は、もとから荒れて広いところだった。岩石や草木に至るまで、すべて強かった。けれども私が皆くだき伏せて、今は従わない者はいない」
そして、これによって仰せになった。
「今この国を治めるものは、ただ私一人のみである。その私と、共に天下を治めることができる者が他にあるだろうか」
そのとき、不思議な光が海を照らし、忽然と波の上におどり出て、白装束に天の蕤槍を持ち、やって来ていった。
「もし私がいなかったら、あなたはどうしてこの国を平らげることができたでしょうか。もし私が無ければ、どうして国を造り堅めることができて、大きな国を造る功績を立てることができたでしょうか」
大己貴命は尋ねて仰せられた。
「あなたは何者ですか。名を何というのですか」
答えていった。
「私はあなたの
大己貴命は仰せになった。
「わかりました。あなたは私の幸魂・奇魂です。今どこに住みたいと思われますか」
答えていった。
「
大倭国の城上郡に鎮座される神がこれである。そのため、神の願いのままに、青垣の三諸山にお祀りしました。そして宮をそこに造って、行き住まわせた。
これが
その神の子孫は、
大己貴神は、天の羽車である大鷲に乗って、妻となる人を探し求めた。
人に知られずに通っているうちに、娘は身ごもった。このとき娘の父母は疑いあやしんで尋ねた。
「誰が来ているのか」
娘は答えていった。
「不思議な人の姿で来られます。家の上から降りて入っていらっしゃって、床をいっしょにするだけです」
父母は、その神人が何者なのかを明らかにしようと思い、麻をつむいで糸をつくり、針で神人の衣の裾につけた。
そうして翌朝、糸にしたがって求めて行ったところ、鍵穴をこえて、茅渟山を経て吉野山に入り、三諸山に留った。そのため、神人が三輪山の大神であることがわかった。
その糸の残りを見ると、ただ三つの輪だけ残っていた。そこで、三諸山を三輪山と名づけて、大三輪神社という。
ところが
兄の事八十神がその兎にいった。
「お前がその体を直すには、この海の潮水を浴びて、風の吹くのにあたって、高い山の上で寝ていなさい」
兎は八十神の教えのままに、山の上で横になった。すると浴びた海水が乾くにつれて、兎の体の皮膚はすっかり風に吹かれて裂けてしまった。
そのため、兎は痛み苦しんで、泣き伏していると、神の最後にやってきた大穴牟遅神[大己貴神]が、兎を見て仰せられた。
「どういうわけで、お前は泣き伏しているのか」
兎は答えていった。
「私は
大己貴神はその兎に教えて仰せになった。
「今すぐに、この河口に行って、真水でお前の体を洗って、その河口の
それで教えのとおりにしたところ、兎の体は元どおりになった。この兎を今、稲羽の
このときその兎は、大己貴神に申しあげていった。
「八十神は、きっと八上姫を娶ることができないでしょう。袋を背負ってはおられますが、あなた様が娶られるでしょう」
求婚を受けた八上姫は八十神に答えていった。
「私はあなた達の言うことは聞きません。大己貴神と結婚します」
これを聞いた事八十神は、大己貴神を殺そうと思い、みなで相談して伯耆国の
「赤い猪がこの山にいる。我らがいっせいに追いおろしたら、お前は下で待ち受けて捕らえなさい。もし待ち受けて捕らえなかったら、きっとお前を殺すぞ」
こういって、火を使い猪に似た大石を焼いてころがし落した。そこで、追いおろしたのを捕らえようとしたので、大己貴神はその石に焼きつかれて、死んでしまった。
これを知った大己貴神の御親神は、泣き憂いて天に上り、
すなわち、黒貝姫は貝を削って粉にして集めて、蛤貝姫はこれを待ち受けて、母乳の汁を塗ったところ、立派な男子となって出て行かれた。
ところが事八十神はまた、大己貴神をあざむいて山に連れ込み、大木を切り倒し、楔をその木に打って、その割れ目に入らせるやいなや、楔を引き抜いて打ち殺してしまった。
そこでまた、御親神が泣きながら大己貴神を捜したところ、見つけ出すことができて、ただちにその木を折って取り出して復活させた。
御親神は、その子である大己貴神に告げて仰せになった。
「あなたはここにいたら、ついには八十神によって滅ぼされてしまう」
そこで、すぐに紀国の
ところが、八十神は捜し求めて追いかけて来て、矢で射て大己貴神を殺そうとしたので、木の股をくぐって逃れた。
御親神は、子神に告げて仰せられた。
「
そこで、その仰せに従って、素戔烏尊のもとにやって来ると、その娘の
「とても素敵な神がおいでになりました」
そこで大神は出て、大己貴神を見て仰せられた。
「この者は、
そうして呼び入れて、蛇のいる室に寝させた。
このとき、その妻の須勢理姫命は、蛇の比礼を夫に授けていった。
「蛇が噛みつこうとしたら、この比礼を三度振って、打ちはらってください」
そこで、教えられたとおりにしたところ、蛇は自然と鎮まったので、やすらかに眠ってその室を出ることができた。
また、翌日の夜は、蜈蚣と蜂のいる室にお入れになった。
今度も蜈蚣と蜂の比礼を授けて、前のようにした。そのため、無事に出られた。
また、鏑矢を広い野の中に射込んで、その矢を拾わせた。
そこでその野に入ったとき、ただちに火を放ってその野を周りから焼いた。出る所がわからず困っていると、鼠がやって来て、
「内は広く、外はすぼまってます」
と、このようにいった。
そこで、そこを踏んだところ、下に落ち込んで、穴に隠れ入っている間に、火は上を焼け過ぎていった。
そしてその鼠は、その鏑矢をくわえて出てきて大己貴神に献じた。その矢は鼠の子どもが皆食いちぎっていた。
須勢理姫命は、葬式の道具を持って泣きながら来て、父の大神は大己貴神がすでに死んだと思って、その野に出で立たれた。
ところがこうして、大己貴神は矢を持って大神に奉ったので、家の中に連れて入って、広い大室に呼び入れて、その頭の虱を取らせた。
そこでその頭を見ると、蜈蚣がたくさんいた。このとき妻の須勢理姫命は、椋の実と赤土を取ってその夫に与えた。
そこで、その木の実を食い割って、赤土を口に含んで唾をはき出されると、素戔烏の大神は蜈蚣を噛み砕いて、吐き出しているのだとお思いになって、心の中でかわいい奴だと思って、眠ってしまわれた。
このとき大己貴神は、素戔烏尊の髪をつかんで、室の垂木ごとに結びつけて、五百引の大岩をその室の戸口に据えて塞いでしまった。そしてその妻の須勢理姫命を背負い、ただちに大神の権威の象徴である
そのため、眠っておられた大神が、この音を聞いて驚き目を覚まし、その室を引き倒してしまわれた。けれども、垂木に結びつけた髪を解いておられる間に、大己貴神は遠くへ逃れて行った。
そこで、素戔烏尊は
「お前が持っているその生大刀・生弓矢で、お前の腹違いの兄を坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払え。お前が
そこで、その大刀と弓でもって、八十神を追いやられるとき、坂のすそごとに追い伏せ、川の瀬ごとに追い払って、国つくりを始められた。
八上姫は大己貴神のもとへ連れて来られたけれども、その本妻の須勢理姫を恐れて、生んだ子は木の股にさし挟んで帰られた。
それでその子を名づけて
大己貴命が、高志国の
杯をかわして、お互いに首の手をかけあって、現在に至るまで鎮座しておられる。これを
この尊が
名は
次に、
次に、
以上の三神は、天照大神がお生みになった三柱の女神で、
「これはあなたの子だ」
とされたため、素戔烏尊に授けて、葦原の中国に天降らせた。
筑紫国の
それでこの神に教えて仰せられた。
「天孫をお助けして、天孫のために祀られなさい」
すなわち、宗像君がお祀りしているところである。また、
宗像君の斎き祀る
素戔烏尊の子の次は、
次に、
次に、
以上の三柱の神は、紀伊国に鎮座されている。すなわち、紀伊国造が斎き祀る神である。
次に、
次に、
次に、
次に、
次に、
次に、
素戔烏尊の子、大己貴神。
またの名を、
または、
または、
または、
これら八つの名がある。
その大己貴神の子は、合わせて百八十一柱の神がいらっしゃる。
まず、宗像の奥都嶋にいらっしゃる神の田心姫命を娶って、一男一女をお生みになった。
子の
味鉏高彦根神の妹は下照姫命。倭国葛木郡の雲櫛社に鎮座されている。
次に、辺都宮にいらっしゃる
子の
都味歯八重事代主神の妹は
次に、稲羽の
子の
次に、
子の
素戔烏尊の孫、都味歯八重事代主神。
大きな熊鰐となって、
子の
この命は、神武朝の御世に詔を受けて、政事を行う大夫となり、お仕え申しあげた。
天日方奇日方命の妹の
この命は、神武朝に皇后となり、二人の子をお生みになった。すなわち、
次の妹の
この命は、綏靖朝に皇后となり、一人の子をお生みになった。すなわち、
三世孫、天日方奇日方命。またの名は
この命は、
子は
建飯勝命の妹の
この命は、安寧天皇のときに皇后となり、四人の子をお生みになった。すなわち、
四世孫、建飯勝命。
この命は、出雲臣の娘・
五世孫、
この命は、伊勢の幡主の娘・
六世孫、
この命は、紀伊の
七世孫、
この命は、大倭国の
八世孫、
次に、弟の
この命は、
九世孫、
この命は、出雲の神門臣の娘・
十世孫、
この命は、出雲の
十一世孫、
この命は、崇神朝の御世に
次に、弟の
この命は、同じ崇神朝に
次に、
この命は、同じ崇神朝に
素戔烏尊の子の次として、大年神。
この神の御子は、合わせて十六柱の神がいらっしゃる。
まず、
子の
次に、
次に、
次に、
次に、
次に
子の
次に、
次に
子の
次に、
次に、
次に、
次に、
次に、
次に、
次に、
次に、
次に、大年神の子として羽山戸神。
合わせて八柱の御子がいらっしゃる。
子の
次に、
妹の
次に、
次に、
次に、
次に、
次に、