【所縁の史跡】石上宅嗣 顕彰碑と芸亭跡(奈良県)

■ 石上朝臣宅嗣卿顕彰碑 [地図]

奈良県天理市杣之内町、天理大学付属図書館の前に建つ、石上宅嗣の顕彰碑です。

宅嗣は、左大臣石上麻呂の孫で中納言石上乙麻呂の子。正三位大納言まで昇り、死後に正二位を贈られた、物部氏族の中心的人物です。

また、淡海三船と双璧をなし奈良時代後期を代表した文人でもあるとの評価があります。
彼が創設したのが、本邦初の公開図書館「芸亭(うんてい)」です。儒教などに関する書物が蔵されたいたといいます。

石上氏縁故の地ということで、建碑の場所はここが選ばれたようです。
昭和五年に、日本図書館協会、近畿図書館協議会などの発起により組織された「石上宅嗣卿顕彰会」によって作られました。

芸草は良いにおいのする虫よけの草で、これにちなんで図書のことも「芸」というそうです。「芸亭」は、つまり「図書館」の意味の雅語です。

『日本後紀』弘仁六年六月二十七日条に、安殿親王(平城天皇)の東宮学士などを務めた、賀陽豊年が学んだことが見えます。

「石上朝臣宅嗣卿顕彰碑

石上朝臣宅嗣卿が奈良朝の晩季宝亀年間に方り平城京の一隅に創立せし芸亭院は我国公開図書館の權輿とせらる
卿名族に出で父祖共に国史に顕はれ且文学の誉あり 卿儀容閑雅経史を尚び山水に親み詩歌を能し書道に達せり 和歌は万葉集に録せられ詩賦は経国集等に存す
又仏教を篤信し其旧宅を捨して阿閦寺を営み寺内特に外典の院を置き名けて芸亭と云へり 好学の徒は出入して自由に図書の閲覧を許され読書の傍兼ねて塵世を超越して修養の静境たらしむ恵澤を被むりて著はれし者に賀陽豊年等あり 惟ふに金澤氏の文庫設立を遡ること約五百年而も卿が徒に典籍を収蔵するに止めず弘く之を公衆に開放して利用を奨めたる一事は近代以前殆之を見る能はざる所に属し真に本邦上世文化史上の異彩と称すべく且東西図書館史上に特筆するに足れり
惜むらくは人去つて跡穢れ存立つ僅かに数十年に至らず平安朝初期以降其院廃すること既に久しく遺址の明に究め難きを憾めり 是に於てか芸亭を表彰せむと欲する者假に石上氏発祥の地を選びて碑を建て宅嗣卿敬仰の意を致さむとする 亦止むを得ざるに出づ按ずるに石上氏は神別物部姓の流を汲み饒速日尊の後裔宇麻志摩治命を祖とし古く石上神宮の西辺に住しき今其旧跡を察するに天理図書館新営の処を隔つること遠からざるに似たり
卿此土に起りて官は大納言兼式部卿に上り晩年桓武天皇東宮に在はしし頃其傅たり 位は正三位に進み天応元年六月薨ぜし時詔して正二位を贈られぬ 又即今茲昭和五年を去ること殆千百五十年前とす 蓋其生誕天平元年より算すれば本年は正二千二百年に当れり是を以て本県図書館の従事者愛護者等相共に首唱し広く之を遠近各地図書館員並に日本図書館協会に計り協心戮力芸亭記念の業を予に嘱せり 予詞章に嫻はずと雖卿を欽慕すること甚深し乃通俗の一文を草して普及に便にす

皇紀二千五百九十年八月
京都帝国大学図書館長 文学博士 新村出 撰文
寧楽 史邑 辻本勝己 書」

『続日本紀』天応元年六月二十四日条に載せる宅嗣の薨伝に、芸亭のことがみえます。

「その旧宅を捨てて阿閦寺とす。寺の内の一隅に、特に外典の院を置き、名けて芸亭と曰ふ。
如し好学の徒有りて就きて閲せむと欲ふ者には恣に聴せり。仍て條式を記して後に貽せり。
その略に曰く、内外の両門、本一体と為り。漸と極とは異なるに似たれども、善く誘けば殊ならず。僕、家を捨てて寺とし、心を帰すること久し。内典を助けむが為に外書を加へ置く。地は是れ伽藍なり。事須らく禁戒すべし。
庶はくは、同じき志を以て入る者は、空有に滞ること無くして兼ねて物我を忘れ、異代に来らむ者は、塵労を超え出でて覚地に帰せむことをといふ。
その院、今も見に存り」

『続日本紀』の成立した延暦十六(797)年の時点、平城京が都ではなくなってもしばらくは存続していたことがわかります。

碑の裏面には、「昭和五年十月十八日 石上宅嗣卿顕彰会建之」とあります。



■ 「芸亭伝承地」 [地図]

芸亭顕彰柱です。
奈良市法華寺町、一条高校の塀の外側に建ちます。国道24号線に面しています。

昭和四十六年に一条高校の校内整地を行った際、寺院の礎石と見られるもの数個が発見されました。

以下のような説明板があります。

「芸亭

芸亭は今から千二百年余前、奈良朝のころ大納言石上宅嗣卿が邸宅を提供して阿閦寺とし、その一隅に設けたわが国最初の公開図書館である。そこには数多くの儒書等を備え、好学の人々に自由に閲覧させたと続日本紀に書かれている。
芸亭の位置については、古来多くの学者によって研究されてきたが、現在では一条高校付近だといわれている。
奈良県図書館協会では宅嗣卿の業績を賛えるとともに、芸亭の存在をひろく世に認識され、その趣旨が今に生かされるよう、ここに顕彰柱を建ててながくこれを記念するものである。

昭和四十六年十月二十八日 奈良県図書館協会」

阿閦寺の具体的な位置を記す古代史料はありませんが、『和州旧跡幽考』巻四に、
「法華寺の鳥居の巽、わづかにへだたりて、田の中に松の一本ありし所ぞ、阿閦寺の跡なり(三語集) 当代は鳥居もなく、松も見えず」
という阿閦寺が見えます。
光明皇后に関する伝説が述べられますが、これを正しくは宅嗣の建立した寺と考える説があります。

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